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日本同盟基督教団 教団事務所 

問われているのは ―LGBT・性的少数者をめぐって― 社会局担当理事 藤田敦

問われているのは ―LGBT・性的少数者をめぐって―
社会局担当理事 藤田敦(北総大地キリスト教会牧師)

さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。(ヨハネ9章1〜3節)

「藤田先生。『性的少数者が7人ほどいる《可能性があることになる》』と先生の発言に加筆して議事録を作成してもいいですか?」これは私が第67回教団総会で、「性的少数者は7%というデータがある。この会場に議員が約100人いるのであれば、7人ほどはおられます」と言い切ったことについて問われた言葉です。「事実確認はしていないので『可能性がある』でも構いません」と答え、議事録が作られました。一方このやりとりで心の中に覚えたザワッとした感触は、自分たちの内に性的少数者の存在を認めたくない、否定したい、そんな空気を感じてのことでした。
この否定的ざわつき、キリスト者がLGBTについて語る多くの場面で出くわします。「LGBTは罪の結果だ」式の偏見、「LGBTになるのはそのような生き方を選択したからで本人の責任。だから本人の意志で治療できる」と力説する言葉。(選択理論や治療は医学的に否定されており、治療と称する矯正セラピーには人格破壊の報告がある。)「LGBTの人権が…」と語ると「人権思想はヒューマニズム(人間中心主義)から出ていて聖書的ではない」と一蹴する言葉。つまりはアイデンティティーに深く関わる性について、それを生きる人を見ないまま「事柄」として論評する「聖書的な言葉」の数々。
世界のキリスト教史を省みれば、教会はユダヤ人差別を生み、黒人奴隷制を支持し、ハンセン病差別を引き起こしました。これらには聖書が使われたのです。悪意というよりもむしろ真面目に犯した過ちでした。だからこそ怖いのです。止まらないのです。私が牧師になった1980年代、ツァラアトは新改訳聖書でらい病と「誤訳」され、罪の象徴としておどろおどろしく語る説教が多くありました。当時はHIV感染者への差別が激化し、「エイズは性的堕落に対する神の裁き」などの言説も身近に聞かれました。それらを生きる人の苦しみと実情が見えていなかった。植え付けられた偏見は無自覚に引き継がれ、影響は今日に至ります。
言うまでもなく私たちは「聖書は誤りのない神のことば」と信じそれに反する思想と闘います。けれど、聖書解釈の誤りや不正確な理解によって引き起こされた人権侵害、人の尊厳を冒した歴史を忘れてはならない、繰り返してはならないのです。
「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか」。盲目を罪と関連させていたからこそ出た質問。旧約の盲目規定を誤解していたのでしょう。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです」。盲目の事柄というより彼が人として神に用いられることをイエスさまは告げ、その目を開きました。そして何より、弟子からさえ「この人が罪を」とみなされていた彼が「あの方(イエス)が神から出ておられる」(33節)と証言し、「主よ、信じます」(38節)とイエスさまを礼拝して神のわざを現すのです。
今日、障害を罪と関連づける人はいないでしょう。ではLGBTはどうでしょうか。無自覚しかし強固に「不道徳」や「罪」の概念と関連づける傾向はないでしょうか。LGBTの「問題」。それは、自分が期せずしてLGBTであり、偏見の中で息を潜めて懸命に生きる少数者側の悩み以上に、偏見を自問することなく受け継ぎ、人が人であることを事柄に収束させて論評する多数者側の問題がより問われるのではないでしょうか。