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日本同盟基督教団 教団事務所 

日本同盟基督教団130 年史③

日本同盟基督教団130 年史③
明日へと向かうヒントが
教団史編纂委員 大瀧 恵理也(小平聖書キリスト教会牧師)

 

この「地の塩」では、10月号から『日本同盟基督教団130年史』(11月22日発行)の読みどころを紹介しています。今号はその3回目です。
今回は1891~1965年の「宣教師の来日から年会成立まで」(第1章)、「日本同盟基督協会の時代」(第2章)、「日本基督教団の時代」(第3章)、そして「日本同盟基督教団の形成」(第4章)の読みどころを短く記してみたいと思います。
本書の特徴は、記録に残る出来事を短く列挙するように淡々と記していることです。そのため、最初は読み進むのが難しく感じられるでしょう。しかし、1年毎にまとめられた内容を、通して読み進んでいきますと、今まで見えなかった初期の宣教の様子が立体的に見えてきて、信仰をもって生きる励ましや指針を静かに与えられます。
1891年11月22日、15名の宣教師たちが横浜港に足を踏み入れた3か月後、その1人であったメリー・エングストロムが天然痘の感染で召天しました。その遺骨を埋葬して2日後、送別会に集まった14名は、できるだけ日本人と交わって生活し、日本語を身に付けて宣教地を調査するため、各地に散らばっていきます。岐阜、神戸、千葉房総半島、鎌倉、東京、伊豆、伊豆諸島などへと、迫害と経済的必要がある中でも、絶えざる主への祈りとともに福音宣教の働きは広がり、やがて各地に伝道所、教会が設けられていきます。
宣教は、都市でも農村でも、福音を必要としている方々を見出しながら進められていきました。例えば、東京であれば貧民窟への伝道、岐阜であれば前年10月発生の濃尾地震への被災地支援、やがて鉄道ミッションという領域伝道も展開されます。生まれたばかりの教会での最初の洗礼式、日本人教師による最初の洗礼式の記録も感慨深いものがあります。日本における福音宣教が開始され、進められていった背後には、日本人の救いのために祈り、宣教師たちを送り出し、主の働きのために犠牲を惜しまず献げ続けてくださった方々がおられたことも間接的に見えてきます。
順風満帆な日々だけではなく、迫害や病い、大火や戦争、宣教の進まない日々もありました。そのため、今の教団総会に当たる年会では、長らく「教会の自給」がテーマとなっていました。その中でも興味深いのは、1930年の年会で「自給への前進を目指す」一方、「新しい開拓伝道に消極的になっていないか」と議論がなされていたことです。1936年の年会では「都市よりも、むしろ農村」という伝道方針に対し、都市伝道をしてそこに本拠をおいて、付近の農村・漁村に伝道することが賢明ではないかとの意見が提起され、翌年も同様な議論がなされ、農村・都市の両面での伝道が進められていくべきだというところで落ち着いた様子が記録に留められています。
戦中の、神社参拝に対しての理解の変容は注視すべきであり、教会と国家の関係を信仰に基づき見据えることができなかった課題が見えてきます。戦後「日本同盟基督教団」が形成され、宣教が拡大していく上で、SAMからTEAMに名称を変えた宣教団との再度の協力関係は大きな力となったことは、記される来日宣教師たちの名前が物語っています。温故知新と言いますが、神様が導かれた歴史を通して、明日へと向かうヒントが見いだされるでしょう。ぜひ「読み通される」ことをオススメします。

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