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日本同盟基督教団 教団事務所 

力と愛と慎みの霊をもって 社会局長 山村諭

力と愛と慎みの霊をもって
社会局長 山村諭(茅ヶ崎同盟教会牧師)

「神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。」(Ⅱテモテ1章7節)

『世の光』4月号の表紙に今年の教団総会での正教師按手の写真が掲載されました。私は新米理事として初めて按手をさせていただきました。写真を見た教会員から「先生、力入りすぎじゃないですか」と言われてしまいました。自分が受けた按手はずっしりと重いものでした。その重さに神が注いでくださる力を思いました。その記憶から指先にまで力が込められてしまったようです。

按手によって与えられる神の賜物は「力と愛と慎みの霊」です。パウロはテモテに、この神の賜物を思い起こして再び燃え立たせよと語りかけます。この時、テモテは福音を宣べ伝えるわざに対して臆病になっていたようです。教会の内外で次々と困難に直面し、うまくいかないことばかりなのです。パウロが囚われの身であることも福音を大胆に語ることをためらわせたかもしれません。臆病の霊に捕らわれている状況がありました。

今の私たちはどうでしょうか。伝道が容易でないのはいつの時代でもそうでしょう。でもコロナ禍でこれまで通りに活動できずあえいでいます。強制されてではなく隣人を愛するがゆえに、祈りのうちに自粛しています。でも心のどこかに残念な思いが積み重なります。思いっきり賛美することも、肩を寄せ合って語り合うことも、共に食しながら親しい交わりをもつこともできない状況にもどかしさを覚えています。こういう状況なのだから仕方がない。そう言い聞かせながら、いつのまにか宣教に対して弱腰になっている傾向はないだろうかと問われます。

神が与えてくださったのは「力と愛と慎みの霊」です。按手は教会の教職者を務めに任じる特別なものですが、聖霊の働きは正教師限定のものではありません。神の御霊は私たち一人ひとりに臨んで福音のことばを理解させ、主イエスを信じる心を造り出し、福音に生きる者とし、福音を宣べ伝える者としてくださいます。

神の御霊は、力の霊です。その力は武力や暴力に訴える力ではありません。その力は困難の中でも屈することのない強さです。神の霊がもたらす力は、困難に屈することなく忍耐し、寛容でいられるようにする力です(コロサイ1章11節)。状況に振り回されて意気消沈するのではなく、強がってみせるのでもなく、信仰の勇気を失わずに立ち続けることのできる力です。オネシポロは獄中にあるパウロを恥とせず、熱心にパウロを捜し出し励まし元気づけました(Ⅱテモテ1章16節)。力の霊は忍耐と寛容をもって、教会の交わりを建て上げる力をもたらすのです。

神の御霊は、愛の霊です。忍耐も寛容も愛の特性です(Ⅰコリント13章4~7節)。愛がないなら教会は教会でなくなってしまいます。神はこの愛の御霊を私たちに注がれました。不安がまん延し、寛容が失われ、苛立ちが心を支配するような時代です。でも愛はこの世界を諦めないのです。「すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍ぶ」ことのできる力です。神の愛は、神に背く罪人を赦し、新たに造りかえ、互いを生かし合う関係を作り出そうとするのです。

神の御霊は、慎みの霊です。今、忍耐しつつ時を待っていることも、慎みの霊である神の導きの中でなされていることと受け止めています。でもこの慎みを臆病の霊に取って代わられてしまわないように、よくよく気をつけたいのです。「時が良くても悪くてもしっかり…どんな場合にも慎んで…」みことばを伝えるものでありたいのです(Ⅱテモテ4章2~5節)。こんな時代だからと萎縮するのではなく、コロナなんか恐れるなといって無謀な歩みをするのでもない。状況がどうであっても、慎んで、忍耐深く、その時なし得る最善を求めながら、神のことばを伝え証しするよう私たちは召されています。

力と愛と慎みの霊を与えられた教会として、福音のために共に歩んで参りましょう。

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