「困っている人に分け与えるため、自分の手で正しい仕事をし、労苦して働きなさい。」(エペソ4章28節)
ロシアのウクライナ侵略戦争、安倍元総理の「国葬」を巡る議論の中で、人は何のために生きているのかを考えます。日々の手のわざが確かになることを願い「働くことの意味」を再考したいと思います。
私たちがイエス・キリストによって救われ、新しくされるということは、自分を回復し、人間関係が回復し、働くことの意味を取り戻すことです。人が救われることは、世界を管理する働きが回復してゆくことです。
現代人は、「仕事」は収入を得るため、教会学校の教師は「奉仕」、被災者支援は「ボランティア」と区別します。しかし、聖書にそのような区別はありません。創世記2章3節の「創造のわざ」の「わざ(メラカー)」世の光 第865号 2022年10月3は多くの場合「仕事」と訳され、神の働きにも人の働きにも使われます。新約聖書で「働く」はエルガゾマイです。主イエスの「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです」(ヨハネ5章17節)、パウロの「その家に住んで一緒に仕事をした」(使徒18章3節)、また「キリストの働きのために、死ぬばかりになりました」(ピリピ2章30節)は、同じ言葉です。このように、神の働きも、人の働きも、生活の糧を得るための仕事も、人助けも、福音宣教も、みな「働くこと」であり、神のみこころにかなうよう世界を管理することなのです。
ところが罪の現実の中で、人の救いも世界の回復も途上にあります。ゆえに、働くことは「労苦」ともなり得ます。
宮沢賢治の短編「オツベルと象」に描かれるのはそのような現実です。オツベルに騙(だま)されて働かされる白象は、「ああ、稼ぐのは愉快だねえ、さっぱりするねえ」と言っていたのですが、「ああ、つかれたな、うれしいな、サンタマリア」と呟(つぶや)き、やがて「苦しいです。サンタマリア」と嘆じます。苦境を知った象の仲間たちが押し寄せてオツベルはくしゃくしゃに潰されます。「『ああ、ありがとう。ほんとにぼくは助かったよ。』白象はさびしくわらってそう云った。」と物語は結ばれます。
みこころにかなう生き方、働きをしたいと願うのですが、それが難しい世の中です。ウクライナの戦争は世界を巻き込んで半年を超え、民間人を含め双方に3万人を超える死者が出ているとされます。戦争は、「委ねられた世界の管理」という使命から言えば真逆の大失敗であり、最も無益な「働き」です。何のため?誰のため?と問われた東京オリンピックでは、ここにきて中枢での贈収賄が報道され、善意のボランティアは怒り心頭でしょう。まっとうな働きとは正反対の霊感商法で人々を騙し続ける旧統一協会と自由民主党をはじめとする政治家との癒着が明るみに出ました。憲法を軽視し、「モリカケ桜」の疑惑を抱えたまま、安倍元首相が凶弾に倒れました。「国葬」への違和感が渦巻くのも当然です。
しかし、戦火の中で生命を助け、平和をつくり出す働きも続いています。不正をただす働きも、反社会的カルトの被害者を援助する働きも、まっとうな社会を維持するための働きも弛(たゆ)まず続けられています。祈りも、福音宣教も、神も人も働いています。「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」とした憲法を真の意味で生かしましょう。そして、みこころにかなう「働き」を確信をもって続けてまいりましょう。
「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざ(仕事)に励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」(Ⅰコリント15章58節)