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日本同盟基督教団 教団事務所 

戦後の宣教師 ダン・マカルパイン宣教師の足跡

戦後の宣教師 ダン・マカルパイン宣教師の足跡
関わられた教会開拓の働き
沼南キリスト教会 牧師 倉沢 正則

私が伝道師となって静岡めぐみ教会(当時は静岡ライフセンター教会)に赴任して2年目の1983年7月29日に、教会の開拓者であるドナルド(ダン)・クライド・マカルパイン宣教師(68才)が、突然主のもとに召されました。駆け出しの私の指導教師であり教会の父でもあったマカルパイン宣教師の葬儀司式に、初めてでもあり、戸惑いと恐れを感じたのは言うまでもありません。それ以上に、その葬儀の参列者に驚きを隠せませんでした。当時の福音的な教会の重鎮である牧師たちの参列に圧倒されるばかりで、それもそのはず、これまで彼が教会開拓に携わった朝顔教会(東京、1950~56年)、岡谷めぐみ教会(長野、1957~62年)、自由ヶ丘教会(名古屋、1963~68年)、茨木聖書教会(大阪、1970~75年)と、おおよそ5年毎に教会開拓に携われ、それぞれ日本人牧師に委ねて来られたその足跡を肌で感じ取る機会でもあったからです。それぞれの教会のおもだった信徒たちや教団やTEAM宣教団の理事や同労の宣教師たちも参列されていました。まさに教団を越えて、マカルパイン宣教師を慕う方々の顔ぶれに、彼の日本の人々の救いを求めてやまない情熱と教会開拓の実りを目の当たりにしたのです。

その略歴
1915年12月29日に米国カルフォルニア州フレズノ市に誕生されたマカルパイン宣教師は、大学卒業後、シェル石油会社やニューヨーク生命保険会社に勤め、1941年にメアリー・エリザベツ・シモンズと結婚され、同年の真珠湾攻撃、第二次世界大戦開始に伴い、米国海軍に志願し入隊されました。1943年にペンシルバニア州フィラデルフィアの海軍基地で、善行によって救われようとしていたことの間違いを認めて、ただイエス・キリストの完成された救いの業を信じる新生を体験してキリスト者となりました。1945年に海軍を除隊し、1946年に彼のビジョンと関心のフォーカスは「日本の人々の救い」となって宣教師として献身、バイオラ聖書大学に入学され、1949年優秀な成績で卒業し、1950年3月25日にTEAM宣教団の宣教師として海路にて日本へ出発、同年4月15日に横浜に入港し、宣教の第一歩を東京で踏み出されたのです。

人柄と受け継ぐべき信仰
今私の手元にはマカルパイン宣教師の働きと人柄を知る貴重な証言集(『マカルパイン先生の足跡をたどって』1984年出版)があります。マカルパイン宣教師夫妻の日本での33年間の宣教を通訳者として支えた菅内啓子師と朝顔教会時代の岩崎暁男兄が編集発行人となっています。私もその一人として彼を慕う80人がその思い出を語っていて、彼らが「ミスター」(マカルパイン宣教師の愛称)からいかに愛されたのか、どのような薫陶を受け、その信仰を励まされたのかが証しされています。この証言集を参考にすると、誰もが、いつも微笑みに満ち、暖かさを醸し出すミスターからの愛を感じ取っていることが分かります。いつもトラクトを手に持ち、その笑顔で歩み寄ってゆくと、人々はその暖かさに自ずと手を伸ばしてトラクトを受け取るのです。静岡めぐみ教会時代、おそらく最後の教会開拓と考えられていたことでしょう。年も大分離れた若い伝道者である私にいつも微笑みかけて気遣い、「あれをせいこれをせい」とは言わず、まずは自分が模範となって背中で、人々の救いへの情熱と教会形成のあり様を示しておられました。休日にはよくボーリングに誘われ、ともに時を過ごすことでした。彼は、若輩者のところまで降りて来て下さり、伝道・牧会のストレスをともに担って下さったのです。これらのことは私一人に対してではなく、接する人々、特に、教会員にはまさに自分から動いて彼らに仕えられました。たとえご自分が忙しい時にも、誰にでもその人が特別であるかのように時間を割き、「自分は愛されている」と思わせるほどに熱心に仕えられて、多くの方々がそのようなミスターの愛ともてなしを証言しているのです。
マカルパイン宣教師のメッセージはとても分かりやすく、温かく聖書的なものでした。しかし、みことばを権威をもって語られました。といっても英語で語られ、菅内師の絶妙な息のあった素晴らしい通訳で、女性の声でもあたかもミスター本人が語っているかのように聞こえたほどです。不思議なことに、ミスターは日本語を話す難しさを覚えておられましたが、日本人の心をもたれていて、そのメッセージに人々は引き寄せられていました。彼は日本を愛し、人々の救いへの情熱と教会開拓というビジョンに生き、思いやりをもって人々を惜しみなく愛されましたが、自分には厳しく、忍耐強く、前に向かって奮闘する姿があり、実に60代後半なのに歩くのが速かったことを覚えています。その背中に、自分の身体をうち叩いて従わせるファイトを感じていました。だからと言っていわゆる「頑張り屋」ではなく、ニコニコしながら「みことばと聖霊」に委ねて、宣教師としての召しと働きに忠実であったのです。

参考資料
『マカルパイン先生の足跡をたどって』菅内啓子、岩崎暁男編集、株式会社印刷アド、1984年。

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