それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという場所に来て、彼らに「わたしがあそこに行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。そして、ペテロとゼベダイの子二人を一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」 (マタイ26章36〜38節)
今年のイースターが4月9日のため、「受難節」が今月22日㈬から始まります。2月に「受難」を取り扱うのは、少し早い気がしますが、今年もイエスさまのご受難を思い返しつつ、思い巡らしつつ「受難節」をお迎えしましょう。
そこで今回、イエスさまが十字架に付けられる前の「ゲツセマネの祈り」の場面に目を留めます。冒頭聖書箇所37節では「イエスは悲しみもだえ始められた」とあり、38節でも「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」とあります。このようにイエスさまは十字架を前にして必死に祈っておられたにも関わらず、その傍らで弟子たちは3度も寝てしまっていたというのが「ゲツセマネの祈り」の場面です。
この印象に残るイエスさまとお弟子さんたちのコントラストに埋もれがちですが、イエスさまがお弟子さんたちに語られたことばが、36節の「ここに座って」、ペテロとゼベダイの子2人に語られたことばが、38節の「ここにいて」です。結果的に、ペテロとゼベダイの子2人は、寝てしまいましたが、「ここに座って」「ここにいて」というイエスさまのおことばには応えられています。つまり、イエスさまと心を1つにして祈れなかったけれども、最低限イエスさまから求められた「ここに座って」「ここにいて」は全うできたということです。
この視点に気付かされるとルカの福音書10章の「マルタとマリア」の出来事にもつながります。イエスさまの接待に忙しくしているマルタ。一方姉妹のマリアは、イエスさまの足もとに座って、主のことばに聞き入っているという状況。それに対してマルタが、「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください」( 40 節後半)と訴えるのに対して、イエスさまは「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません」(41〜42節)と語られます。まさにマリアは、イエスさまの足もとで「ここに座って」「ここにいて」を実践し、イエスさまから「マリアはその良いほうを選びました」と評価されているのです。
「受難節」を前に、私たちもイエスさまのおことばに従い、ゲツセマネでお弟子さんたちが実践した「ここに座って」「ここにいて」の大切さに目を留めましょう。寝てしまっても、イエスさまの語られることばが良くわからなくても、イエスさまのもとで「ここに座り」「ここにいる」ことで、見えてくること、気付くことがあります。もう少し具体的に書くならば、「ここに座り」「ここにいて」を避ける年月を長く経験したからこそ、マルタのように「いろいろなことを思い煩い、心を乱す」のではなく、お弟子さんたちの姿勢、マリアの姿勢に倣いましょう。もう一度イエスさまのもと、礼拝堂に集まり「ここに座って」「ここにいて」、共に賛美を献げ、共に祈り、共にみことばに耳を傾ける「受難節」を歩みたいものです。主の守りと平安をお祈りしています。