キリスト教信仰において最も重要な教理は、三位一体論とキリスト論です。キリスト論において、とりわけ重要なのは、キリストの内には100%神である性質と100%人である性質の両方が存在するという「ニ性一人格論(にせいいちじんかくろん)」です。今回は、この辺りの歴史的概略を紹介します。
第1回総会議であるニカイア公会議(325年)はアレイオス主義(キリストの神性を否定する異端)を斥けましたが、その後も論争の火種はくすぶり続けました。さらにこの頃から問題になったのは、三位一体論の中でもキリスト論をめぐる問題でした。第2回総会議であるコンスタンティノポリス公会議(381年)では、アレイオス主義が最終的に異端として排斥されて、三位一体論の確立に貢献しますが、この時にキリストの神性を強調するあまり、完全な人性を認めないアポリナリオス(310年頃-390年頃)という人物の見解も排斥されました。しかしこの二性一人格論の問題は、この後も尾を引くことになります。この問題をめぐって大きく2つの立場が台頭しました。アンテオケ学派とアレクサンドリア学派です。
アンテオケ学派は、キリストの人性を強調する立場を取ります。アンテオケ学派の代表的な人物の1人がネストリオス(381年頃-451年頃)です。彼は、キリストの完全な人間性を主張した点で評価されますが、その結果、キリストの内にある神性と人性の統一を損なう傾向を持ち、キリストには神性と人性それぞれの人格があるかのようになってしまいました。さらに両者の結合も実体的であるよりは意志による合意的結合である危険が見られ、結果的に「二性二人格論」に陥ることになります。
これに対してアレクサンドリア学派は、キリストの神性を強調する立場を取り、両者の統一性を強調します。アレクサンドリア学派の代表的な人物の1人がエウテュケス(380年頃-456年)です。彼は、キリストの神性と人性の結合を強調するあまり、人性は神性に吸収されるようにして同化され、キリストの身体は、普通の人間の身体とは異なる性質を持つものと理解しました。その結果、「受肉以前は両性だが、結合後は単性」という「キリスト単性論」に傾くことになります。
第3回総会議であるエペソ公会議(431年)では、アンテオケ学派のネストリオス主義が排斥され、第4回総会議であるカルケドン公会議(451年)では、アレクサンドリア学派のエウテュケス主義が斥けられることになります。そして「カルケドン信条」と呼ばれる信仰定式を表明し、キリストの二性一人格論を確立させます。
この「カルケドン信条」には、キリストの神性と人性の関係が、4つの否定語を用いて表現されました。4つの否定語とは、「混合せず、変化せず、分割せず、分離せず」(άσυγχύτως, άτρέπτως, αδιαιρέτως,άχωρίστως)という言葉です。前半の「混合せず、変化せず」は、両性の結合を強調するあまり、変化した人性を主張したエウテュケスの立場に対して、後半の「分割せず、分離せず」は、人性の独自性を強調するあまり、両者が分割されて二性二人格論に陥ったネストリオスの立場に対する弁証となっています。
私たちは、このような歴史の教会が生み出した教理の言葉から学びつつ、正統信仰とは何かを改めて学び直したいと思います。そして正統信仰に立ちながら、誤った教えとは何かということに敏感になり、形を変えて正統信仰を侵食しようとする様々な思想に対峙(たいじ)し弁証できる者でありたいのです。
ちなみに、このとき排斥されたネストリオスの立場は、キリストの人性を強調する傾向を持ってはいるものの、正統信仰を大きく逸脱するものではなかったとする意見もあります。そしてネストリオス派はこの後、ペルシャに逃れて東へと移動していき、7世紀初頭には中国に入って「景教」と呼ばれるようになります。一説によると、この段階ですでに日本にも入って来ていたのではないかと考えられています。これが正しければ、フランシスコ・ザビエルに先立つこと約1000年も前に、キリスト教は日本に一度、伝えられていたことになります。