関わられた教会開拓の働き
私がダビデ・マーチン宣教師と初めてお会いしたのは、高校生時代(1960年代後半)、当時通っていた安茂里聖書教会(現長野聖書教会)の特別伝道集会でした。当時のマーチン先生は濃い髭を顔半分に蓄えた髭男のようで、その様相はまさにモーセのように私には映っていました。それもそのはずで、その時のマーチン先生のメッセージは「十戒」だったのです。震え上がるほどの「罪とさばき」の指摘に、自分は聖なる神の前に罪人であることを示され、イエス・キリストの十字架以外に罪の赦しがないことを思い知らされたのでした。マーチン宣教師は、人々の心をぐいぐいと耕し福音の種をしっかりと蒔き刈り取る人として思い起こされます。まさに教会開拓における「伝道の人」でした。1951年の来日以来、金沢中央教会(1952年)、加賀中央教会(1953年)、小平聖書教会(1964年)、久留米聖書教会(1977年)、北秋津キリスト教会(1981年)と私たちの教団の教会開拓に携わりました。そればかりか、仏生山キリスト教会(1959年、その後解散)、日本長老教会の東久留米泉教会(1970年)と仏子キリスト教会(1977年)を開拓され、宣教師定年後、再来日して教会未設置の福井県鯖江市で1993年から召天まで単立の鯖江キリスト教会を開拓されました。さらに宣教師在職中に、東京基督教大学の前身校(日本クリスチャンカレッジ、日本基督神学校)や聖書神学舎(現聖書宣教会)で神学教育にも携わられました。
その略歴
1924年12月13日に米国ニュージャージー州ハッケンサック市に誕生されたマーチン宣教師は、フロリダ州立大学卒業後、ジャクリン・メイ氏と結婚され、義母に勧められて夫婦で聖書を読み、小さい頃からの死の恐れもあって、キリストの復活を信じてキリスト者となりました。その後献身してコロンビア神学校を経てダラス神学校を1950年に卒業、翌年1951年8月にチーム(TEAM)宣教師として来日されました。そして前述のように、金沢を皮切りに8つの教会を開拓しつつ、神学教育に携わり、また、教団を超えて広く伝道者として福音を宣べ伝える働き(伝道集会やクリスチャンキャンプ)をされ、多くの信仰決心者や教会献身者を起こされました。宣教師定年の1986年に米国に戻り、テネシー州ノックスビル市にあるシダースプリングス長老教会で副牧師として現地日本人のためにも6年間働かれました。私は当時フラー神学校(カルフォルニア州パサデナ市)留学中で、その時奉仕していたロサンゼルス合同教会の修養会でマーチン先生が講師として招かれ、先生が我が家で一泊されて私たちは幸いな時を持たせていただきました。その頃、マーチン先生は心臓に弱さを抱えておられて、昼食後はしばらく休まれていたことを思い出します。1992年ジャクリン夫人が召され、日本への思いがさらに起こされて再来日し、翌年1993年に三木冨美子氏と結婚されて、教会のなかった鯖江市で第9番目の開拓伝道に赴かれ、16年後の2009年2月10日に心臓弁膜症置換手術後の肺炎と出血性ショックで召されました(84才)。58年の生涯を日本の人々の救いと教会形成のために奉仕されたことです。
「伝道の人」として生かされた生涯
マーチン宣教師の人々を救いに導く情熱に深く感じ入ったのは、私が日本基督神学校(東久留米時代、現東京基督教大学大学院)の学生時代(1978-81年)でした。「伝道学」の授業の講師がマーチン先生で、今もその時の講義ノートがあります。その多くが、サマリアの女性など主イエスが個人的に伝道された箇所から学ぶものであり、また、学生一人一人に救いの証しをさせ、それを皆が聞いて回心の過程を汲み取るという授業でした。加えて聖書のみことば暗誦が試験の一部となっていて、それも聖句ではなく、詩篇では篇の全部などでとても長いものでした。「外国人の私ができるのですから、あなたがた日本の人ができないはずはありません」と叱咤激励されたことです。マーチン先生の日本語での分かりやすく真っ直ぐな説教が聞く者の心に迫るのは、心に蓄えられた「みことばの力」によるものと、そのみことばへの信頼と祈りを伴う大胆さにあったことを覚えるのです。マーチン先生の伝道魂は生涯の終わりまで続き、先生の葬式が伝道集会的なプログラムであったと聞かされています。さらにマーチン先生は、養子縁組に尽力されて、何と38組のお世話をされました。ファミリーの中での子どもの養育に心を配り、若者たちの多くに感化を与えて教会献身者を起こす器として用いられたのです。思い返せば、米国パサデナの我が家に泊まり、小さい子どもたちの中に座り、聖書のお話しを語って聞かせる優しい「おじいちゃん」のマーチン先生の面影が偲ばれます。