「祈りのネットワーク」を毎週の祈祷会で使用しています。「朝に」は教師(夫妻)の顔写真と、右端に小さく現住陪餐会員数が載せられ、教会の住所、集会時間等の情報等と細かく掲載がなされています。30字以内に込められた切なる願いや重荷を祈る時、心の憂いは取り去られ、「心配しなくても大丈夫、神さまにお委ねしていけば…」と穏やかな思いにさせられます。時に自分の未熟さにも「はっ」とさせられます。「ああ、この教会は行った事があったなぁ。先生どうしてるかなぁ。みんなどうしているかなぁ」とその瞬間、北国の寒空であったり、終わる事のないジリジリした暑さが思い出されます。教会の働きは、何一つ自分の力で成し遂げられるものはありません。それなのに講壇からは「皆さん、是非このこと、あのことのためにお祈りください」と簡単にリクエストしてしまう自分がいます。「黙ってついてきてくれる人のためにどれほど心を傾けて祈ってきたのだろう。」とよくよく振り返る必要があります。感謝なことに、祈り会には大先輩の老牧師夫妻が必ず集ってくださいます。未熟なみことばの奨励に忍耐強く耳を傾け、教会の兄弟姉妹のため、諸教会のため、ネットワークに掲載されている、まだ見ぬ教会の必要のため、最後に私のために淡々と祈られるお姿に励まされます。牧師は上から語る以上に、祈りの人とは何たるかを教えられている気がします。
祈る大切さを知っていても、問題が起こるとその対処に行動で反応してしまう自分です。ですが意識していないところで、一人でも二人でも、しずかに祈ってくださる無名の奉仕者によって主の働きはすすめられているのでしょう。この影のリーダーシップは偉大です。教会はこうした御霊の人に支えられ、守られています。
今年も「祈りのネットワーク」が多くの人の手に取られ、用いられることを祈りたいと思います。