私たちは神のコトバをなんとか目の前の人に届けようと日々、励んでいます。
神学校で教わったのは、「説教者は神のことばを正しく語ればよい。あとは聖霊がその人に働く。あなたが聞く人を変えるのではない。聖霊が変えるのだ」でした。
もちろん釈義作業や時代背景も添えながら、忠実に正しく語ることは説教者の最低限の務めであると思いますが、コトバを耳や目に届ける作業だけでなく、意味付け<ストーリーが自分のものになる>作業が必要だと思います。
「コトバ」は意味を持って投げかけないと、人に届きようがありません。
例えば、ある宣教師は、教会の壁の至る所に聖句を書いて貼りました。また、教会カレンダーにも必ず、聖書箇所が引用されていますし、ホームページにも今年度の聖句を掲げている教会を見かけます。そのこと自体は悪いことではありませんが、「これに意味があるのか」とT H I N KA G A I N して見直す必要はないでしょうか。
また、街角で黒背景の白と黄色文字で「神の国が近づいた。悔い改めよ」という縦長の看板を見かけ、不気味だなと幼少期から感じ、今でも思っています。意味付けに関して言えば、逆効果となってしまいます。
コトバを物理的に伝えてはいるものの、相手の心に到達していなければ、人は動きませんし、変わりません。「あとは聖霊のみわざ」としてお任せする前に、もっと伝える側の課題を認識しなくてはならないのだと思います。
もう人生に疲れて生きていたくない、という人にどのようにコトバを伝えるべきでしょうか。
もしかしたら、「生きていたくないほどに、しんどいことがあったのですね」かもしれませんし、ただ「そうなんですね」と否定しないで共感することかもしれません。その上で、聖書を開き、生きることに疲れて人目を避けていた<サマリヤの女>の箇所を通してのイエスのコトバであるかもしれません。正解はわかりませんが、コトバが意味をなして、初めてその人のうちに具現化し、力となります。
証しに効果があるのは、その人のストーリーが見えて、聞いている人が自分に置き換えられて意味を捉えやすくなるからでしょう。適用や事例、証しを積極的に使いましょうということではなく、コトバが意味をもって届けられるということを何度も再考することが宣教に携わる務めであると感じます。