「あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。」(マタイ5章14節) 私は、韓国の釜山市に生まれました。父親は貨物船の船長で家にいないことが多く、お酒や女性のことで家族を苦しめました。私自身も自分の母親が誰かわからずいろんな方にお世話になり、いつも寂しく空しい思いを抱いていました。今、高校生の息子を見ながら、その頃の自分を思い出したりします。大きな家にひとりぼっちになり、毎朝、自分でお弁当を2つ作って学校に通っていたこと、友だちは受験生だからと言って親に甘えても、自分にはできなかったことでした。
私は、14歳の時、誘われて教会に行き、キリストに出会いました。自分でも嫌なほどのゆがんだ性格や罪に悩んでいた頃でした。私を愛し、いのちをかけてくださった存在があること、自分の価値、生きる意味・目的を知った時から、心の奥から喜びと感謝があふれ、賛美が止まりませんでした。そこから私の人生は、いつも主の導きがあり、困難な時も守りと希望がありました。ところが、イエスさまがこのような私にも「あなたがたは世の光です」と言われたのは不思議でした。光はイエスさまであって、私たちは「暗闇」なのにと思い、とても心が落ち着きませんでした。私だけでなく、いくら人々に尊敬され、社会的・信仰的に輝いていても、私たちは自分自身が「光」でなく、惨めな罪人であることをよく知っていると思います。その意味を知るまでは相当の時間がかかりました。
イエスさまはこの言葉に続けて「山上にある町は隠れることができない」と不思議な話をされました。これを聞いたイスラエルの人々は、山上の町といえば、まず主の神殿があるエルサレムを思い浮かべたと思います。エルサレムは、不思議な形の町で、山上にあって、敵が攻めにくい要塞のような町として知られています。また山を覆うように建物が建てられていますので、旅人が見つけやすいようです。さらに夜の真っ暗闇の中であれば、エルサレムからの光はまるで暗闇の海の中で港を探している船に光を照らす灯台のように、古代の旅人にとって、救いの光となったでしょう。イエスさまが山上の町・エルサレムを思わせることを言われたのは、世の光である私たちが、エルサレムのように隠れず、世に光を照らす存在であることを言われたのではないでしょうか。山上の町の光は、救いそのものではありませんが、暗闇の世界の中でさ迷う人々に道を示すしるしとなります。また、迷い込み、疲れた人には、シェルターのようなものとなります。そして、今までは山の上の町、エルサレム(正確にはエルサレムの神殿)が光でしたが、もはや、エルサレムの神殿ではなく、あなたたちが光であると言われています。エペソ人への手紙には光の子として生きることをも教えています。
「あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。あらゆる善意と正義と真実のうちに、光は実を結ぶのです。何が主に喜ばれることなのかを吟味しなさい。」(エペソ5章8〜10節)
光の実は、あらゆる善意と正義と真実のうちに、何が主に喜ばれることなのかを吟味し歩むことです。日本同盟基督教団の諸教会が、この世に送られた光、光の子どもとして福音に生きるよう、共に励み、祈り合っていきたいと思います。今期、私の担当となりました日本同盟基督教団の教育局には、教職教育部、教会教育部、家庭教育部があります。情報が氾濫している時代だからこそ、主の教えを発信し、塩気を保つクリスチャンを育成していくことが大切です。さまざまな学びの機会が今年度も計画されています。一つひとつの学びがとても有意義で、謙遜になるものです。是非、自分自身のために、また家庭と教会のために共に学びたいと思います。
どうか、世の光として成長する2024年度となりますように。