イエスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」ルカの福音書10章26節
この箇所で主イエスは2つのことを律法の専門家に尋ねています。1つは「律法には何と書いてありますか。」つまり聖書のみことばそのものの知識を問う問い。2つ目は「あなたはどう読んでいますか。」つまりそのみことばをどう理解しているかという問いで、神のことばへの向き合い方を問うものでした。
これは聖書神学舎が1958年の建学以来大切にしていることと重なると理解しています。伝道者を養成するこの学び舎で訓練を受ける者たちが、聖書が誤りのない神のことばであるとの確信と信頼を深め、みことばによって変えられ、益々主とそのみことば、また隣人を愛する者となってほしい。そのような祈りと願いとともに、学び舎の歩みが導かれてきました。
それ故に、神学舎での学びの中心は聖書のみことばそのもの(ギリシア語・ヘブル語・アラム語の原典)にどこまでも向き合うことに重きを置いています。流行りの神学に飛びつくのではなく、みことばそのものに聞き続けること:「もとになる素材を持たない人は、それを固めることも、修正、発展させることもできない。いつも借りもの、仮のものに頼る他ないことになる。」とは、かつて本学で教鞭をとった教師のことばです。
しかし時にそれが知識偏重になってしまうことにも警戒が必要です。だからこそ主イエスは冒頭の箇所のその後の展開の中で律法の専門家に「良きサマリア人」の例えを話されたのでしょう。誰が自分の隣人なのかを問うのではなく,自らが他者の隣人となる姿勢が求められています。それは知識ばかりで愛や従順、信仰なく聖書を読んでしまうことへの主からの警鐘であったということができます。
みことばに聞き続け、主と隣人を愛する者となること。そのような願いをもって、神学舎ではあらゆる教団・教派から献身者を受け入れています。そしてこの時代にも尚、全寮制を基本としています。それは共に生きる生活をとおして、一人ひとりがキリストのからだに属することを知り、益々みことばに生きる者となるためです。
このような聖書神学舎の目下の祈りは以下のとおりです。
・各地の神学校・教団教会にも共通の祈りの課題として:献身者が起こされるように。伝道者の不足が深刻な中、主が、主の召しの器たちを立ち上がらせてくださるように。
・日本全国で牧師伝道者として働いている400人以上の、また世界で働いている数十人の同窓生の奉仕の祝福を。