「実際、からだはただ一つの部分からではなく、多くの部分から成っています。…からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。…からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。」(Ⅰコリント12章14〜25節抜粋)
教団では、フロンティア2019、宣教130周年記念大会、そして昨年のフロンティア2024で公的に手話通訳をつけました。これは理事会で、「教団の大会は基本的にユニバーサルなものとする(あらゆる人が参加できるようにする)」と決めたことによります。一方、こんな声もありました。「横で通訳すると説教者が話しづらいと思う」「福音を聞くのに気が散ってしまう」「通訳は会場の隅っこで一対一でやればいい」。教団に限らず似たような声は世の多くの場面で聞かれます。
たとえば「隅っこで」通訳した場合ーーステージでは説教が語られ、賛美とパーフォーマンスがある。しかし聴覚障害者は目障りでない隅っこにいて、ステージに視線を動かせない。通訳が読めなくなるからです。その結果、4日間の大会で見たのは大ホールの隅っこだけーーこのような状況になります。なお実際のフロンティアでは、通訳者はステージ中央で説教者の脇に立ち説教者の感情が見える形で通訳しました。また賛美チームの中央に立って歌詞とともに賛美の喜びを体の躍動で通訳しました。聞こえる人にとって音響設備が当たり前なように、聞こえない人にとって手話通訳が当たり前。加えて「ステージを見ながら」説教を受けとり、賛美の喜びを分かち合う。これもまた参加者にとって当たり前とすべきことなのです。
さて、私たちがユニバーサルな(あらゆる人が参加する)発想がなかなかできないのはなぜでしょう。それは無意識の内に、大多数のフツーの人々の中に障害者という特別な人がいると発想するから。そして手話通訳などは当たり前ではなく、特別に「してあげる」ことだと思うからではないでしょうか。同盟基督教団教会員で聴覚障害者のお一人が、著書にこう記していました。
「障害者は自分の限界をきちんと自覚すべき。善意で接している周りの人々に対して不満や非難を言うな。甘えるな。私自身がいつも自分に対して言い聞かせていました。職場でも『人に迷惑をかけないように』という意識が強かったのですが、裏を返せば、失敗をおそれ、周りからマイナスの感情でみられることをおそれ、障害を補うために何が必要なのか、自分の意見や要望をはっきり言うことができないまま仕事をしてきました」。「配慮を求めることは、自分ひとりのために費用をかけたり、…周りの人々に何らかの負担をかけたりしてしまうことになる」。(平川美穂子『参加―耳が聞こえないということ―』)
ここにあるように「人に迷惑をかけない」「負担をかけない」これらは私たちが世で身に着けた価値観かもしれません。けれども聖書の語るように、「からだは…多くの部分から成っている」「ほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならない」のだとすれば、「各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです」を受け取りましょう。つまり、だれもがかけるべき迷惑をかけあいながら、負担をかけあいながら、一つのからだとして生きていくという価値観です。先の著者はこう結論しています。「(手話通訳を含めて)情報保障の目的は、一言でいえば『参加』でしょうか」。「チームに他のメンバーと同・等・に・参・加・す・る・こ・と・で・、自分も含めたひ・と・つ・の・チ・ー・ム・が・成・立・す・る・」。
当たり前のこととして、互いのために配慮し参加する。そこに、キリストのからだとして一つに生きる教会の姿があると信じます。