聖書と古代オリエント
その人は
流れのほとりに植えられた木。
時が来ると実を結び
その葉は枯れず
そのなすことはすべて栄える。
詩篇1篇3節
「その人は 流れのほとりに植えられた木。」この表現は、籾殻のように風に吹き飛ばされる「悪しき者 (1、4節)」との違いを表しています。木はしっかりと大地に根を張り、どんとして動きません。しかも、絶えず「流れ」(直訳は「水の流れ」)から恵みの供給を受けています。2節から、その水とは「主のおしえ」であると分かります。木に栄養を送るのは水です。ここでは木にたとえられた信仰者に栄養を供給する水として主のおしえが意識されているのです。神から教えられ続けることで、信仰者は動かされない木のような存在になるのです。
そして、「時が来ると実を結び」とあるように、やがて実を結ぶものとなります。ここで「時が来ると」と言われていることに心奪われます。何事にも「時」があるのです。自分は何も生み出していない、まるで役に立っていない、と感じられる時もあるかもしれません。それどころか周囲を困らせ混乱させる迷惑者のような、足を引っ張る存在になってしまっていることもあるかもしれません。しかし、主に教えられ続ける人は必ず実を結びます。そして実を結ぶことには全てを支配しておられる神の「時」があるのです。
そのような神の時に準ずる「実」のイメージに対して、「その葉は枯れず」という表現からは決して枯れることのない「葉」の持続性を感じさせられます。花はしおれて散ってしまうこともあります。その意味で花は「実」に近い存在でしょうか。しかし、ここで言及されている「葉」は枯れません。主の教えに聞き続ける人は風雪に耐え、たとえ日照りのような猛暑にさられても耐えることのできる忍耐力をも持っているということです。信仰者は、主のおしえに支えられ困難の中にもじっと耐えることができるのです。
そして「そのなすことはすべて栄える」のです。「栄える」とは「成功する」という意味です。あるいは「勝利」という意味もあります。それは何でも物事がうまくいく、というような目先の利益のことではありません。長い目で見た時の「成功」であり「勝利」のことが意識されています。人生の軍配は必ず主のおしえを喜びとする者に上がるのです。すべての人に下る最終的な主の「さばき(5節)」があるからです。そして「悪しき者の道は滅び去る(6節)」のです。
こうして、この箇所には主のおしえを喜びとし「昼も夜もそのおしえを口ずさむ人 (2節)」の様子が「流れのほとりに植えられた木」として描かれています。そこには「静と動」の関係性があります。動かない、普遍的なもの(みことば)に支えられ続けているならば、主の時に必ず用いられるということです。短期的には困難と思える状況が続くこともあるかもしれません。しかし、長い目で信仰者の人生を見た時には、必ず主にある者の勝利が約束されているのです。このことに気がつき、主のおしえに聞き続け、それを喜びとする人は本当に幸いです。そのような生涯を主にあって歩めるとは、なんという恵みでしょうか。