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日本同盟基督教団 教団事務所 

復活のイエスさまの内住に生かされる 廣瀬薫

イースターメッセージ

復活のイエスさまの内住に生かされる

廣瀬薫(派遣教師)

「自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。」(ピリピ2章8〜9節)
皆さまにイースターの祝福が豊かにあふれますようお祈りします。「復活」や「永遠の命」は、今女子高で担当している高3の「聖書科」の授業でも、何とかして伝えたい最重要テーマの1つです。同盟基督教団伝道部発行のトラクト「カリス」第8号を配って、聖書のキリスト教世界観を一生懸命伝えています。
さて、イエスさまの復活の記録を読むと、それが幅広くて多様なことに刺激を受けます。弟子たちが復活のイエスさまに出会ったのは、エルサレムなのかガリラヤなのか。女性たちはどこで出会い、どのような役割を果たしたのか。一見矛盾して見える記録を読めば読むほど想像をかき立てられます。もちろん多様な記録の全てが事実だったのです。そこから感じるのは、各人の復活体験の重層性です。彼らは1度だけ復活のイエスさまに出会って信仰の確信を得たのではなく、何度も繰り返し出会い、考えを深められ、それに伴い信仰が深められ、天来の新しい光で自らの復活体験を捉え直しつつ生きたのです。私も、信仰を得た頃の復活理解から今の理解に至るまで、何度も生ける主イエスさまを体験し直させていただいたと思っています。私たちのイースターには、二重三重さらに幾重もの復活体験があるのです。
初代教会の復活理解の重要ポイントは、「復活したイエスさまは、今どこにおられるのか」だったと思います。それは今復活を祝う私たちにとっても重要な問いです。イエスさまがどこにおられるのか分からなければ、お会いすることもできないからです。この問いに対して、①「天におられる」、②「教会というキリストの身体に臨在しておられる」と知るのは大切です。私たちは教会で、生ける主のみわざとみおしえに出会います。それと同時に忘れてはならないのは、③「イエスさまは私の内に生きておられる」と知ることです。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2章20節)。
だから、私たちは今、内住のキリストの命に生かされて、主と同じ姿に生きることができる者とされています。これは決定的な「命の質の転換」です。人生を歓喜で満たす転換です。では、主と同じ姿に生きることの具体的な内容は何か、というと、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」(ルカ9章23節)に要約されています。これが復活の命を受けて生きるキリスト者の生き方の要点でしょう。冒頭のピリピ書の聖句が示すことは、イエスさまは不本意にも十字架に架けられた「けれども」死を打ち破って復活したのではなく、自ら進んで十字架に架かるまでにみこころに従い「それゆえ」復活したのだということです。十字架を負って生きる先にこそ、私たちの復活が待っています。十字架を避ける生き方には、真実な復活体験は無いのです。
私の今の仕事はいわゆる「サーバント・リーダー」ですから、組織の全ての出来事の責任を負っています。「どうしてキリスト教主義学校の学園長になったのですか」と聞かれることがありますが、他の人が断るからだと思っています。十字架は誰でもできれば断りたい重荷です。しかし、内住のイエスさまが共に担ってくださる重荷は、復活と永遠の命の喜ばしい味わいを伴っています。キリスト者として生きる恵みの道に導かれた以上、復活のイエスさまの内住の命に生かされて、主と同じ姿に生きる者でありたい。そして弟子たちと同じ喜ばしい復活体験を重ねたいと願っています。

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