「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」(マタイ5章9節)
今から80年前、私の祖父は、戦闘機の整備士として働いていた満州国(現在の中国東北地方)で終戦を迎えました。戦争に敗れ帰国を命じられた祖父は、平壌経由で対馬海峡を渡り、命からがら帰国しました。鉄道で広島を経由し郷里岡山の倉敷駅に着いた時、路線バスに乗ろうとして大変驚いたそうです。戦時中は兵士が優先して乗車した路線バスが、満員を理由に祖父の乗車を断ったからです。怒りに駆られた祖父は、身に付けていた短剣を振りかざしたそうです。
その後、祖父は電力会社に就職し、妻(私の祖母)と結婚し私の母が生まれてきました。私の母によると、祖父は戦後お酒が手離せなくなり、会社帰りに最寄り駅そばの酒屋に入っていたそうです。給料日前になると大事にしていた自転車を質に流し酒代にしていたそうです。見るに見かねた私の祖母(妻)は最寄り駅まで祖父(夫)を迎えに行っていたそうです。この母から聞いた話を祖父に伝えると笑っていましたが、戦争による心の傷の大きさを私は感じました。
お酒に溺れていた祖父でしたが、やがて転機が訪れます。いつものように酔い覚ましで散歩をした裏山にある神社の一角で、祖父は自責の念に駆られて神社の宮司にこう尋ねたそうです。「私はお酒をやめたくてもやめられず、家族に迷惑をかけています。どうすればお酒をやめることができますか?」。すると宮司はこう答えたそうです。「それほどにお酒をやめたいのなら、教会へ行きなさい!」。ありえないような展開ですが、そこから祖父は教会へ足を運びました。
教会に通い始めた祖父は、聖書を読み、天地創造の神の愛と自分の罪を知り、イエス・キリストの十字架の救いを信じ、洗礼を受けました。そして祖父は、活き活きと信仰生活をするようになり、聖書を配るギデオン活動にも参加するようになりました。私が小学生の頃に祖父の家を訪ねると、スーツを着た大人の男性が10名ほど集まり祈り会をしていたことがありました。祖父は、かつてはお酒につぎ込んでいたお金を教会と宣教団体に献金するようになったのです。
祖父は生前、幼い私と妹が喧嘩をすると私たちの手を握り握手をさせ「仲良くしましょ♪」と自作の歌を歌ってくれました。また、「怒りや憎しみから良いものは生まれないよ」と教えてくれました。当時、祖父は定年退職しており、「これがおじいちゃんなりの悔い改めの旅じゃ」と言い、ハワイや韓国で行われる退役軍人の交流会やクリスチャンの祈祷会に出かけていました。上着の胸にはニコニコ(笑顔)マークの書かれた黄色い缶バッジを付け外出していました。
2001年9月アメリカ同時多発テロに苦々しい表情を浮かべていた祖父は、2009年に91歳で召天しました。その後、世界は揺れ動き、戦火はあちこちに飛び火し、混迷を極めています。平和の灯火を掲げる場所が更に少なくなり、敵対構造を作り出す恐れや不安を取り除く対話が求められています。糸口を探すのは至難の業ですが、「平和をつくる者」(マタイ5章9節)として、キリストの十字架で実現した和解の福音に生き、痛みの中に希望の光を見出したいと思います。
「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」(マタイ6章9、10節)