「2025年平和祈祷会」が8月11日13時30分から横浜上野町教会で開催されました。第1部は講演、第2部は祈りの時間の形式で行われました。会場参加者数は25名、オンライン参加者数は76名でした。上記の題で山口陽一牧師(東京基督教大学特別教授)が講演をしてくださいました。
ふだん日常生活の中ではあまり意識することのないテーマでしたが、この講演を通して、自分の信仰や生き方に深くかかわる問いを突きつけられたように感じています。
日本は明治期の台湾出兵以来71年間、戦争を続けてきた国です。アジア太平洋戦争では2000万人のアジアの人々と310万人の日本人が犠牲になりました。戦争は「自衛」や「解放」という名目で語られましたが、実際には侵略でした。
特に印象に残ったのは、戦局が敗北必至と分かっていながら開戦に突き進み、若者たちを無意味な死へ追いやったという事実です。林市造というクリスチャン青年が特攻で命を落とした話は胸に迫りました。彼の死は「殉教」と美化されましたが、講師は「無駄死にだった」と明言しました。その言葉の重みを前に、私は「国のため」という言葉が人の命をどれほど容易に消費してしまうのかを思わされました。
そして何より心に残ったのは、教会自身の戦争責任についての指摘です。日本基督教団は設立時に「皇国の道に従う」と宣言し、戦争を「聖戦」と呼び、戦闘機を献納しました。神社参拝を容認し、朝鮮の兄弟姉妹にまで強いたのです。教会が本来告白すべきは「聖書に従う」ことであったはずですが、実際には「天皇に忠誠を尽くす」と言い換え、偶像礼拝に陥ってしまいました。これは単なる歴史的事実ではなく、信仰共同体が隣人を裏切り、神を忘れた罪なのだと教えられました。
旧約聖書のダニエルは、祖先の罪を自分の罪として悔い改めました。彼は捕囚から70年を経てもなお「私たちは罪を犯した」と祈り続けました。日本の教会もまた、戦争責任を「先人の罪」として切り離すのではなく、自分自身の罪として告白すべきだと感じました。被害者意識にとどまる限り、真の悔い改めは生まれないのです。
講演を聴き終えた私は、過去を学ぶことが単なる歴史認識ではなく、信仰を根底から問い直す営みであることに気づかされました。戦争に協力した教会の姿は、決して遠い過去の出来事ではありません。今日もまた、社会の空気に流される弱さは私たち一人ひとりの中にあります。だからこそ戦後80年という節目にあたり、私は「誰に忠誠を誓うのか」という問いが自らに突きつけられています。
神にのみ従うという信仰の姿勢は、時に孤独や反発を招きます。しかし、再び過ちを繰り返さないためには、それを引き受ける覚悟が必要です。今回の講演を通して、私は「戦争責任とは、過去を裁くことではなく、今日の私の信仰と生き方を問うことなのだ」と深く心に刻みました。そして、この問いを一人でも多くの人と分かち合いながら、次の世代へと語り継いでいきたいと思っています。