「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。」ヨハネ15章9節
私がキリスト教に興味を持ち始めたのは、22歳の時に勤めていた社員10名位の小さなイベント会社で、同僚のIさんという女性に出会ったことがきっかけでした。Iさんはイエスさまを信じていませんでしたが、お姉さんから伝道されて信じるようになりました。お姉さんがたまに会社にやって来て、姉妹2人で「イエスさまって素晴らしいんだよ!」と言って会社の一人ひとりに伝道していました。私は同じ専門学校を卒業したE君(後に牧師)を会社に誘い、一緒に働いていました。姉妹2人の伝道の働きで、初めに会社のリーダーが、その次にE君がイエスさまを信じました。
私も教会に誘われましたが「私に神さまは必要ありません」と頑なに拒んでいました。「教会に行くと生活が縛られてしまう」と思っていたからです。ただ、教会に行き始めた同僚たちは、何か楽しそうで羨ましくもありました。ある時、Iさんの机の本棚に「新約聖書入門」という本を見つけました。私はキリスト教に興味があることを知られたくなかったので、人がいない時にかくれて読んでいました。また、E君の机の上にあった聖書にしおりが挟んであって、そのしおりに「わたしの愛にとどまりなさい。ヨハネ15章9節」と書かれていました。「わたしって誰のこと?」と私は思いました。
ある日、E君に「Iさんの洗礼式を見に行こう」と誘われて見に行きました。私とE君は会堂の1番後ろで見ていました。洗礼式の後は他の教会員と一緒に帰りました。その後、教会のコンサートや食事会など教会イベントの誘いが多くなり、教会のことが以前より気になりだしました。それから1年以上たって、E君から「自分の洗礼式に来て欲しい」と連絡がありました。以前の彼は、少し冷たい目で世の中を見ている一匹狼の印象があったのですが、教会に行くようになって、素直で正直な人に変わっている姿を見て「そんな風に変われるのだったら自分も変わりたい」と心の中で思うようになっていました。「E君を変えたものは何だったのだろう」という知りたい気持ちもありました。
洗礼式の日は午前の礼拝から午後の洗礼式まで、教会のみんなと過ごしました。私は以前から教会の人たちを動かしている「なにか法則があるのでは」と思っていました。教会でお茶を飲んでいると、Iさんのお姉さんが来て「イエスさまを信じませんか」と聞いて来ました。私は「イエスさまを信じる」と言うよりは、「彼らを動かしている何か」が否定できなくなっていたので、無言でうなずきました。彼女は「お祈りをしましょう」と言い、「できますか」と私に聞きました。私が首を横に振ると、Iさんは少し間を置いてから「私が言ったことを同じように言えますか」と言いました。そしてイエスさまを救い主理事の声同僚に誘われてとして信じるお祈りを始めました。一緒にお祈りをしたのですが、意味や内容は全く分かっていませんでした。ただ「心を開いて神さまの存在を受け入れた」ということだけはわかりました。祈り終わった後、みんながとても喜んでいるのを見て「自分が祈った内容はどういう意味だったのだろう」と知りたくなり、礼拝に通い聖書を読むようになりました。聖書を読むようになると、聖書のみことばが新鮮に心の中に入って来るようになりました。
「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3章3節)全てを理解したわけではありませんでしたが、みことばを信じて歩み出しました。毎週礼拝に来るようになった私に、牧師は洗礼を勧めました。半年後、イベント会社で一緒だったもう1人の同僚と洗礼準備の学びをして、ともに受洗しました。I姉妹が伝道してから約3年で社員10名のうち5名が受洗しました。