「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」マタイ1章21節
毎年、教会では主イエスのご降誕をお祝いします。「本当のクリスマスを教会で!」と地域にご案内し、主イエスを宣べ伝える最高の機会が到来します。うれしいクリスマスです。主の民を、私たちをその罪からお救いになられるまことの救い主イエス・キリストが来てくださいました。それゆえに、神が私たちと共におられるという出来事が成就しました。この主の愛のみわざをゆっくり静かに思い巡らし、主を賛美し救いを感謝し、礼拝するのがクリスマス、キリストの祝いです。
クリスマスは最高の伝道の機会です。しかし、聖書にはそれほど主イエスのお誕生の記事があるわけではありません。何十年も教会で説教している説教者たちは、今年のクリスマス説教はどうしようと毎年考え悩みます。毎年、新鮮な思いでクリスマスを祝い、伝道したいのですが、なかなか思うようにいかず、新しく語り直すことの難しさにぶつかるということもあります。一周回って新鮮さに欠ける説教になりそうになり、自分の力のなさに疲れてしまうことさえあるでしょう。また、待降節が近づくと教会は忙しくなっていきます。子どもクリスマス、クリスマス礼拝や祝会の準備などに追われます。背後には見えない奉仕がびっしり……。牧師や伝道師だけではなく、「クリスマスが来るのは嬉しいけれど、クリスマスは大変!」と思っている兄弟姉妹は案外多いのではないでしょうか。私は教会に仕えるようになって34年以上、毎年、クリスマスの祝い方をあれこれと考えてきました。毎年新鮮にお祝いしたいと願ってきましたが、クリスマスにどうしても必要なものはわずかであること、いやひとつだけだと気づきます。それは、落ち着いて主イエス・キリストのみことばを聴き、救い主の到来を喜ぶことです。
私たちは今こそ、主イエスご自身のお姿に目をとめなければならないと思います。私がこれをやらなかったら・・・と思う奉仕も確かにあります。立ち止まったら倒れてしまう、そんな思いに駆られるほど走っていることもしばしばです。しかし、それでも、静かな夜、天使たちの賛美の中で、家畜に見守られて誕生したマリアの腕に抱かれた赤ちゃん主イエスを見つめたいと思います。このお方に礼拝をおささげすることを第一にしたいのです。無防備で弱く、誰かに助けてもらわなければ生きていけないほどの姿になってきてくださった救い主が、今、ここに私たちと共におられる意味を思い巡らしたいのです。このお方の語る御声に耳を傾けたいのです。主イエスは神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てることはできないとは考えず、ご自分を空しくして、人間と同じようになり人の姿をもって現れてくださいました。そればかりではなく、謙遜の限りを尽くして十字架の死にまでも従い、私たちを罪から救われました。それゆえにこの方は栄光を受けられ、すべてのものの主となられました。この方は、神の御子です。
今年のクリスマスも微笑みを絶やさず私たちの主として共にいてくださる主イエスを見つめ、このお方のみことばを聴きたいと願わされます。主イエス・キリストに向きを変えてこのお方に立ち返り、このお方に新しく出会いそのお姿にいやされ、このお方の福音の約束を新しく聴き直し、まさに自分の救いの喜びを味わうクリスマスを祝いたいと思います。そこでこそ、また新しく主イエスに出会う方々が加えられる、喜びのクリスマスとなると信じます。すべての教会のクリスマスに、主に栄光がありますように。ひとりでも多くの方がみことばによって救い主に出会うことができる礼拝を献げることができますように。陰で労苦している方々に主の慰めがありますように。インマヌエルの主の恵みがみこころにかなう方々にありますように。