
「もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を『喜びの日』と呼び、主の聖日を『栄えある日』と呼び、これを尊んで、自分の道を行かず、自分の好むことを求めず、無駄口を慎むなら、そのとき、あなたは主をあなたの喜びとする。わたしはあなたに地の高い所を踏み行かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地であなたを養う。 主の御口がそう語られる。」(イザヤ58章13節〜14節)
理事の任期満了を前にしています。4期8年間を振り返り、宗教改革が打ち立てたキリスト教会のしるしについて記します。
同盟基督教団の三本柱は「聖書信仰・宣教協力・合議制」です。中でも教団のDNAと称される宣教協力に自ずと思いが向きますが、宣教を語るには順番があります。
教団信仰告白7「…地上の教会は、再び来られる主を待ち望みつつ礼拝し、みことばを説教し、聖礼典を執行し、戒規を重んじ、聖霊の力によって全世界に福音を宣べ伝える。」
私たちがまず告白するのが「みことば・聖礼典・戒規」、それに続けて「福音を宣べ伝える」です。つまり、教会のしるし3つを確認した上で、聖霊に信頼しての宣教を告白しています。
さて、理事の任期中、教会のしるしが最も問われたのは2020年からのコロナ対応でした。感染への恐怖感とネット技術を手にした中での緊急対応。キリスト教系の新聞では礼拝配信に関する記事が掲載され、ノウハウも紹介されました。ネット礼拝、リモート会議、オンライン集会が怒涛のように押し寄せて思索する暇もありませんでした。一方、理事会では教会のしるしに照らして、「説教と聖礼典の執行は地上の教会にとって本質的なものです。…(オンラインでの)洗礼の執行や聖餐の執行については慎んでいただきたい」と通知しました。そして現在、6年を経て生活はとっくに平常。それでも「遠く離れた場所から視聴しています」などが感動の話として伝えられます。ではその人は、地域教会にどのように加わり主の教会で仕えているのでしょう。実は地域教会を後回しにしてはいないでしょうか。教会のしるしが忘れられていくことを危惧します。
ネットの功罪を語ると必ず出てくる話。「教会に来られない人がいる。年長者が、病弱者が、障碍者が…」。配慮として手紙や録音を届けること、あるいは配信もありえるでしょう。しかし、言い訳に使っているだけの場合もありますし、「今日は教会には行けなかったけれど、どこそこの礼拝にネットで出席しました」とのまじめな連絡には虚しさを覚えます。「都合に合わせて礼拝を視聴する」になってはいないか、と。
「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい」(ローマ12章1節)
IT・情報技術の利用は、宣教報告や実務での利便性は絶大で後戻りはできません。けれども「教会のしるし」を見失ってはいけません。
みことば…時と場所を同じくする牧師の人格を通して神のことばが説教で語られる。礼典…洗礼によってキリストのからだに結ばれ、一つのパンとぶどう酒を取り霊的交わりに入れられる。戒規…主の十字架の贖いを信じ教会のわざとして罪に取り組む。これらが果たして、地球のあちら側とこちら側にいる個人と個人、画面と画面で実現できるのか。私には不可能に思えます。
2千年間、人々は身を運んで「みことば、礼典、戒規」を共にしてきました。技術革新が津波のように迫る時代にあって、教会のいのちに関わることとして改めて考えましょう。そして、生けるキリストのからだとして「みことば・礼典・戒規」を重んじつつ、「聖霊の力によって全世界に福音を宣べ伝える」教団でありつづけましょう。