「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。『平安があなたがたにあるように。』・・・十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。」ヨハネ20章19、24節
復活の日の夕方、10人の弟子たちはユダヤ当局のイエス残党狩りを恐れて隠れ家に潜んでいました。主イエスは彼らの真ん中に現れ、「シャローム!」と言い、彼らに福音宣教の使命と聖霊を与えてくださいました。ところがトマスひとりは不在でした。なぜトマスだけ、ほかの弟子たちと一緒にいなかったのでしょうか?
手がかりは、「あなたが愛しておられる者が病気です」と、ラザロ危篤に関する知らせが、彼らのところに届いた時、トマスが発したことばにあります。主イエスが弟子たちに、「さあ、彼のところへ行こう」と呼びかけると、トマスは「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか」と言っています(ヨハネ11 章3〜16節参照)。この頃には、すでにユダヤ当局のイエスに対する敵意はあからさまになっていて、エルサレムにほど近いベタニアのラザロの家に行くことには危険があったからです。とはいえ、ほかの弟子たちはこの段階で、そこまでは言わない中でトマスはいささか悲観的で思い込みの激しい殉教志願者タイプの弟子であったことがうかがえます。
そういうトマスは、選抜されてゲツセマネに主と一緒に行った3人が主イエスを捨てて逃げてしまったこと、特に弟子団の筆頭格と自負するペテロが3度も主を拒んでしまったこと、そしていま隠れ家で鍵をかけて震えている他の弟子たちを見て失望し、彼らと少し距離を取りたくなったのではないかと思われます。彼としては『すでに主にいのちを献げた身。彼らは今さら死を恐れているのか』と感じて、独りになりたかったのでしょう。
ところが、主イエスはそういう孤高の殉教志願者トマスのところにではなく、隠れ家で臆病に震えているほかの10人の中に現れたのでした。
トマスが戻ると、他の弟子たちは「トマス。俺たちは主を見たんだ。幽霊ではない。主の手には釘の跡があったし、脇腹には槍の傷跡を見たんだよ。まぎれもない。あれは復活された主イエスだ」と顔を輝かせています。トマスはどれほど悔しかったことでしょう。『イエスさま、どうして、あんな臆病な連中には現れて、命を捨てる覚悟の私のところには現れてくださらなかったのですか』と恨めしかったでしょう。そんな気持ちが、彼に、「釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じない」という暴言を吐かせてしまったのでした。
あの日から一週間、トマスは『ああ俺は、2度とは来ない機会をのがしてしまったのかもしれない』と不安な日々を過ごしました。次週の初めの日には、今度トマスはほかの弟子たちとともにいました。だから、そこで主にお目にかかることができたのです。主は、あのトマスのことばを咎めだてせず、彼に「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい」とまで言われたのです。こうして彼は「私の主、私の神よ」という見事な信仰告白に導かれました。
この出来事は何を意味するのでしょう。復活のキリストは孤高の修行者とともにではなく、弱さや欠けを抱えた私たち神の家族、教会の中におられるという恵みの事実です。
「私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。」Ⅰヨハネ1章3節