「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」Ⅰコリント1章18節
友人の牧師は、新幹線でたまたま同席した人にこう言われたそうです。「キリストの愛の教えはいいけれど、十字架は血生臭くていけないね。あれがなければキリスト教はもっと普及するでしょうに。」パスカルは「キリスト教弁証論」を「第一部、神なき人生の悲惨。第二部、神とともなる人生の至福」という構成で書こうと計画していました。確かに、主イエスがくださった救いは「神とともなる人生の至福」であり、それは誰もが望むことでしょう。しかし、神が私たちを「悲惨」から「至福」へ移すためには、私たちの罪が罰せられる必要があり、そのために主の十字架の受難が必須なのです。
「十字架のことば」、すなわち、キリストが私たちの罪の罰を身代わりに担って十字架で死んでくださったという教えは、代償的贖罪の教理と呼ばれます。しかし、初代教会の時代にはすでに代償的贖罪を愚かだと否定する人々がいました。宗教改革時代のソッツィーニも、キリストの代償的贖罪の教えは非理性的、支離滅裂、不道徳そして不可能であると非難しましたし、19世紀以来の自由主義神学者たちも軌を一にしています。たとえば森一弘司祭は高橋哲哉氏との対談で、「キリストの十字架を『犠牲』としてとらえてしまうと、神の姿が歪んできてしまう。(中略)福音書の中にキリストの十字架を『犠牲』とする、あるいは罪のあがないとするような言葉は全く出てきません。」(『殉教と殉国と信仰と』)と発言しています。本当でしょうか。
改めて聖書を開いてみましょう。主イエスは「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」(マルコ10章45節)また、「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」(マタイ26章28節)と教えました。バプテスマのヨハネは、イエスを指して「見よ。世の罪を取り除く神の子羊。」(ヨハネ1章29節)と叫びました。パウロもペテロもヨハネもキリストの代償的贖罪を教えています。パウロは「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。」(ローマ4章25節)と語り、ペテロは「ご存じのように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(Ⅰペテロ1章18、19節)と教え、ヨハネは「この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちのつみだけでなく、世界全体の罪のための宥めのささげ物です。」(Ⅰヨハネ2章2節)また、「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4章10節)と弁じます。また、ヘブル書は全巻をあげて、主イエスがご自分を私たちの罪の犠牲として捧げた大祭司であると教えています。そして、パウロは御子の十字架の犠牲を要求したのは、神ご自身であると聖書は教えています。「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」(Ⅱコリント5章21節)
福音書をはじめ聖書には「キリストの十字架を『犠牲』とする、あるいは罪のあがないとするような言葉」は満ちています。「十字架のことば」は、二千年間生きて働き続けて、今も人類を救われる者と滅びる者と分けているのです。私たちは、人を「神なき人生の悲惨」から「神とともなる至福」に移すために、この「十字架のことば」を宣べ伝え続けるのです。