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日本同盟基督教団 教団事務所 

クリスマスメッセージ

クリスマスメッセージ
下川 友也(支援教師)
「天よりの主イエス― ヨハネからクリスマスを学ぶ―」

 

クリスマス物語は、マタイ、ルカで語られることが多くあります。しかし私はこの紙上で、ヨハネから語ろうと思います。1章11節、「この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった」。これは、ルカの福音書2章7節に重なるではありませんか。ヨハネの福音書には、博士も羊飼いも幼子イエスも登場しません。しかし、メッセージは簡潔にして力強くあります。続く12、13節が次のように語ります。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである」。そして、これがヨハネの福音書の全体を貫いており、20章31節はそもそも執筆の目的は、信じていのちを得ることにあると、明言しています。
信じていのちを得る事例、証人として例えばニコデモ(3章)。彼などは、イスラエルの教師なのに、そのことがわからないのか、と叱責されるがごとくに描かれています。しかし、民数記の故事から、ただただ仰ぎ見れば(十字架を)生きる、という単純さに導かれます。
サマリアの女(4章)などは、前歴がいかにあれ、聞いた限りでの不思議な言葉、渇くことのないいのちの水、それを率直に、主イエスに向かって、くださいと言いました。それで良いのです。ヨハネの福音書で有名な、復活の一週後のトマスの疑いとそのあとの信仰告白、これも私たちに共通する心の弱ささながらに、しかし受け入れられていく証しです。

私はふと思います。ヨハネの福音書、ヨハネの呼びかけは非常に単純です。率直です。にもかかわらず、どこか私たちは(二千年前の人々のように)これを受け入れようとしません。なぜでしょうか。一つに、約束された内容が、あまりにすごいからです。永遠のいのち、どえらいことです。にわかに信じがたいことです。世慣れた常識が、神の恩恵を阻んでいるようです。でも、子どものように単純に、です。
もう一つの理由は、良心的に考えて、大人たちは、自分の心に自信がないからです。つまり、信じると言っても、すぐに疑いが生じてきます。生涯信じる心を変わりなく持続する難しさに、ためらいを感じてしまいます。私はしかし、そのことのゆえに主は私たちに、洗礼と聖餐という2つの礼典を与えてくださったと知らされています。私たちの心は、本当に揺れ動きます。今日信じていても明日は疑います。では私たちが信じる確かさを担保するものは何でしょうか。まずは、洗礼です。宗教改革者ルターは、試練に際して、私は洗礼を受けている、と自らを鼓舞したといいます。加えての、聖餐。繰り返される礼典により、ヨハネ福音書6章の出来事を教会の礼拝の中で再現しています。
天よりの主イエス、であるからに14章では、信じたものに備えられてある、天の住まい、またそこにいく道が語られています。わたしは道であり、真理であり、いのちなのです、この確信言辞をしかと心に留め置きたいと思います。心騒ぎやすい私たちに、主は繰り返し、神を信じ、わたしを信じなさいと激励しておられます。
クリスマスは、地上の人々の愛の交わりに多く用いられています。それはそれでけっこうなことです。でも、クリスチャンは目を天に向けて、そこから来られたお方、そこに帰られたお方を記憶するときとしましょう。キャロリングの時は、いっそう目を天に向けて、主を賛美しようではありませんか。

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