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日本同盟基督教団 教団事務所 

不安の中で恐怖感を考えよう 常任書記 藤田敦

不安の中で恐怖感を考えよう

常任書記 藤田敦(北総大地キリスト教会牧師)

「愛する者や私の友も 私の病を避けて立ち 近親の者でさえ 遠く離れて立っています。…しかし 私は聞きません。 聞こえない人のように。 口を開きません。 話せない人のように。…まことに主よ あなたを私は待ち望んでいます。 わが神 主よ あなたが私に答えてくださいます。」(詩篇38篇11節〜15節)

センシティブな問題をセンシティブな時だからこそ、不安を認めた上で考えたいと思います。それは私たちの恐怖感について。
日本の統計を2つ並べます。
①インフルエンザ(2019年)患者報告数187万人、* 超過死亡数約1万人。②新型コロナウイルス(2021年)感染者149万人、死者1万5千人。
さて、病院や施設ではインフルエンザを常に警戒しています。毎年約1万人が亡くなるからです。新型コロナウイルス感染症では昨年1万5千人が亡くなりました。社会が麻痺し医療が崩壊するほどの対応をした結果の1.5倍。危険性はコロナの方が相当に高い。これは確かです。
しかし考えたいのは、統計に表れない私たちの抱く死への恐怖感。インフルエンザの1.5倍でしょうか。いいえ、はるかに大きなパニックが社会を覆いました。この恐怖感を冷静に考えないと、人は排除に向かいます。
地方の温泉で見た表示「県外の人の入浴お断り」。食堂で見た張り紙「県外者の御来店をおことわり致します。店主」(『県外者』は赤文字)。確かに人流抑制のためには何らかの線を引かざるを得ないのかもしれません。入国拒否、県外者お断り…。
しかし、医療従事者の子の登園拒絶やJapanese Only(日本人専用)表示、他県ナンバー車ヘの投石事件まで起きました。悪意から始まったのではありません。過度の恐怖です。推察されるのは、無理解から恐怖にかられ「正義感」を覚えての排除。
歴史の実例は、関東大震災での朝鮮人虐殺、キリスト教界が「愛の業」として率先したハンセン病患者のあぶり出しと強制収容。同じ根っこのできごとが、現代に繰り返されている面があるのではないでしょうか。
今回の感染症では、教会でもこんな言葉が掲げられました。「県をまたいで来られた方の礼拝出席はご遠慮ください」「自粛対象地に行った人は2週間の礼拝自粛をお願いします」人が動かなければ感染症は広がらない。多分それは事実です。しかし、神の民として礼拝に来る人や自粛対象地(どう決める? 「自分の県」はどうする?)へ行った教会員の礼拝出席を、「遠慮」や「自粛」として拒むのは適切なのだろうか。歴史を振りかえって考えるのです。
県外者お断りの食堂に入らず、食べ物を買おうと立ち寄ったスーパー入口。アルコール消毒スプレーの横にこうありました。「歓迎WELCOME 私達は外国人、県外、地元の皆さん、1コお買い上げの方、全てのお客様を歓迎いたします。どうぞ只見のお買い物を楽しんで下さい。社員一同」(『歓迎』『WELCOME』は赤文字)。嬉しくなって思わずレジの店員に感謝を伝えました。
神ご自身が人を招かれ、人はそれに応えて自分自身をささげる。教会の礼拝がその具現であるならば、人が神の招きを止めることはできないでしょう。
私たちは医学的な知識のある時代に生かされています。新型コロナウイルスの感染経路は、飛沫感染、接触感染…。防ぐ手立てはある。一方、偶発的な感染を防げないこともある。そのはざまに立つ不安を認めつつも恐怖感と取り組んで、どうすれば共に礼拝ができるのかを追求したいのです。
主の招きによって1つのからだとされた神の民として共に礼拝をささげつつ、この病を乗り越えていきましょう。
「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」(ローマ12章1節)

* インフルエンザを直接・間接の原因とした死亡数の推計

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