近代世界伝道の夜明け
英国における18世紀後半から19世紀前半にわたる「産業革命」に呼応するかのように、おもに英国や米国において、プロテスタント福音派による信仰のリバイバル運動が起こり、教派を超えた伝道活動が世界各地に広がりました。
英国ではロンドン宣教会(1795年創立)が、米国では米国海外宣教会(以下「米宣教会」と略、1810年ボストンで創立)が組織され、宣教師が世界各地に送り出されました。
当時の中国(清朝)は日本と同じように鎖国状態にあり、キリスト教は厳禁、宣教師に中国語を教えることも厳禁、唯一外国貿易が許されていたのは広東(現在の広州市)の狭い地域の「広東13行」に限られていました。そのため初期の宣教師たちは、不自由な状況の中で中国語を学びながら、文書・教育・医療による伝道に従事し、直接伝道が可能になる日を待っていました。
広東からマカオへ
音吉たちがマカオに着いた1835年末までには、ロンドン宣教会出身で中国初代プロテスタント宣教師のロバート・モリソン(1782-1834、1807年広東着)は、すでに他界され、米宣教会初の中国派遣宣教師ブリッジマン(1801-1861、1830年広東着)は「、アヘン取引は絶対にしない」をモットーとするオリファント社の倉庫を印刷所に改造し、1832年5月、英語による月刊誌The Chinese Repositor(y『中国叢書』)を創刊し、中国の法律・文学・習慣などを広く世界に紹介するという貴重な役目を果たしました。
さらに、印刷所の責任者として、米宣教会はウィリアムズ(S. W. Williams、 1812-1884)を広東に送ってきたのですが(1833年10月着)、同印刷所が、中国語のキリスト教文書を発行していることが官憲に知られ、逮捕者も出たため、中国語の印刷機材や彫り師たちはシンガポールへ送られました。そのため、1834年3月以降の米宣教会による中国語の印刷は、アヘン戦争が終わるまで、「新嘉坡堅夏書院」で印刷されることになり、音吉たちがグッツラフに協力して完成させた木版刷りの『約翰福音之傳』と『約翰上中下書』も、同所で1837年5月に印刷されています。
ウィリアムズは、『中国叢書』の編集に加わったものの、身の危険を感じるほどの厳しい官憲の制約を避けるため、1835年12月、帆船で半日の所にある、ポルトガル支配下のマカオに印刷所を移しました。ウィリアムズの印刷所兼住居などの詳細は、子息Frederick W. WilliamsによるThe Life and Letters ofSamuel Wells Williams(1972、以下FWWと略)や、その邦訳『清末・幕末に於けるS・ウエルズ・ウィリアムズ生涯と書簡』(宮澤真一訳、高城書房、2008、)を参考にしていただければ幸いです。
さらに、米宣教会から同会初の宣教医パーカー(1804-1888)が広東に送られ(1834年2月着)、翌年11月に眼科病院が開院されると、大勢の中国人が押し寄せ、眼科ばかりでなく外科手術も行われるようになり、中国人の助手はパーカー医師から近代医療を学ぶことになりました。
モリソン号で砲撃されて
音吉たちが日本へ帰りたい旨の文書を、1836年1月に英国貿易監督庁に提出してから1年が経過したにもかかわらず、その方法が決まらないので、オリファント社の広東支配人キング(1809-1845) は、1837年3月にマカオに送られてきた九州からの漂民4名(船頭の庄蔵、乗組員寿三郎、熊太郎、力松)とともに、同社のモリソン号で7名全員を日本に送り返そうと決めました。同行者として、キング夫人とそのメイド、ウィリアムズ、医師のパーカー、それに沖縄の那覇で合流するグッツラフが選ばれ、1837年7月4日朝、一同で無事を祈り、江戸湾に向かいました。
当時の商船は、海賊などから守るために武器を装備していたのですが、今回は武器などすべて取り払い、キリスト教の文書も積まないで、ただ漂民を送り届け、できれば日本と友好関係を築きたいと願っての旅でした。
しかし、「丸腰の商船」モリソン号は、幕府の「異国船打払令」(1825-1842)のもと、浦賀沖で砲撃され(7月31日未明)、鹿児島湾でも砲撃され(8月12日)、「モリソン号事件」として日本開国史に大きな影響を与えました。この漂民送還についての詳細は、同行したキング、ウィリアムズ、パーカーによる記録や、日本でも相原良一著『モリソン号渡来の研究』など多くの資料があり、そちらを参考にしていただければ幸いです。
この航海後、ウィリアムズは中国語に加えて日本語の習得に努力するようになり、「1837年の冬、7人の日本人漂民にキリスト教を教えるために、マタイ伝を日本語に翻訳・・・また2年かけて創世記の日本語訳を完成した。これらの小冊子は文字の書ける2人の日本人によって2~3冊の原稿となった」(FWW,pp.99-100)とあります。マタイ伝を書き写したのは、恐らく庄蔵と音吉と思われ、ヨハネ伝の翻訳を経験した音吉は、マタイ伝の一語一語を書き写しながら、みことばを心で受け止め、ひそかにキリスト者となり、自分の英語名にマタイの名を取り、JohnMatthew Ottosonとしたものと思われます。