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日本同盟基督教団 教団事務所 

漂民オトキチから John Matthew Ottoson へ ( その5・最終回)

漂民オトキチから John Matthew Ottoson へ ( その5・最終回)
愛宕山教会会員 田中 幸子

 

スターリング艦隊 長崎へ

上海に停泊していた英国のスターリング提督は、前年日本を震撼させた「四艘の黒船」のうちのプリマス号の士官から、日本訪問時の詳細や、この3月に日米和親条約を締結して上海に戻って来たばかりの士官などからも、忍耐を要した日米交渉の過程などを直接聞くことができました。
「鎖国」という日本の固い扉が米国によって開かれたことを祝って、米国独立記念日の7月4日、港内にいた米国人に敬意を示すため、スターリング提督は、すべての英国籍船と乗組員を正装させ、21の祝砲を高々と打ち上げました。
自国も米国と同じような条約を結びたいと強く思いながらも、「管轄域内のロシア船を追撃せよ」というヴィクトリア女王の勅命を遂行するため、スターリング提督は、デント商会から音吉を通訳として借り受け、旗艦ウィンチェスター号に座乗し、蒸気艦エンカウンター、バラクータ、スティクス(総勢960名)を伴って、1854年9月2日、長崎へ向かいました。

日本側との接触

9月7日の午後、九州の陸地が見える地点に達したころ、スターリング提督は、艦隊に戦線体制をとるよう合図し、一列に連なった4艦の艦長を旗艦に集合させ、1枚のメモを渡しました。そこには「日本に滞在中、相手を不快にしたり、誤解を招くような言動を慎むよう、すべての士官と乗組員に徹底させること」と書いてありました。日本に来た目的は、通商のためではなく、ロシア船を捕縛するという軍事目的のためであることを、全員に再確認させました。
それから、4艦はゆっくり長崎港に向かいました。夕暮れ時になると、多くの番船が現れて4艦を囲み、長崎港内に入れないようにしました。白い棒の先に括りつけた一枚の紙きれが提督に届けられると、提督は数人の役人を艦上に招き、オランダ語で書かれた「船の所属、来航の目的、滞在期間」などの質問に対して質問しましたが、すでに数か国語を身につけていた音吉が、すぐに口頭で答えました。
次に提督は、絹のリボンで結ばれた羊皮紙に英語で書かれた女王の書簡を、役人に手渡しました。そこには、「ヨーロッパの自由を守るため、英国はロシアと交戦中であり、アジア地域に回遊しているロシア船を捕縛すべく、スターリング艦隊を派遣した。ロシア船が隠れているかもしれない日本の(すべての)港に入って調べたいのだが、それを日本政府が許可するかどうか伺いたい」などと書かれていました。この書簡は、日本側で英語→オランダ語→日本語に翻訳され、江戸に送られました。
翌日午前9時半ころ、スターリング艦隊は、長崎港外の、点在する島々と長崎半島との間の、静かな場所に導かれて投錨しました。

日英和親条約締結の立役者

長崎での音吉は「白服姿の通弁官」として、交渉の全権を幕府から委任された長崎奉行、水野筑後守忠徳と提督との間に立ち、堂々と英語から日本語へ、日本語から英語へというように、ひとりで両国のための通訳をしています。長崎奉行も音吉を信頼していたようで、「日本人乗組罷在、阿蘭陀通詞は不用之旨申聞、右之者万端通弁仕」と、外交交渉の言語としてオランダ語ではなく、英語と日本語が使われたのです。
わずか3回(10月4日、9日、14日)の公式会談の結果、長崎と函館に英国籍船の入港許可を含む、7条からなる日英和親条約(協約)が成立しました。締結前後の詳しい経緯については、徳富蘇峰の『近世日本国民史 開国日本(四)』の第10章と11章、週刊絵入り新聞Illustrated London News(『描かれた幕末明治:イラストレイテッド・ロンドン・ニュース、日本通信、1853-1902』金井圓編訳、雄松堂出版、1973、6-21頁)などを参照してください。

日系イギリス人第1号となる

すでに外国で家庭を築いていた音吉は、日本への帰国をすすめられても、帆柱に高々となびいている英国の国旗を無言で指したと記録されています。しかし私は、日本では未だに禁教となっているキリスト教徒であることを自覚した音吉は、天の御國を見上げたに違いないと思います。また、マカオに戻るたびに温かく迎えてくれた友とも師とも仰ぐウィリアムズが、後年、力松と音吉のことを「彼(力松)とOtosanは上海に住んでいたが、信仰に忠実な生活を送り、日本のキリスト教会の初穂であった」と述べています。
音吉は1862年1月、内乱の治まらない上海を去って、英国海峡植民地で自由貿易港のシンガポールに移住し、2年後には英国籍をとり(1864年12月20日付)、日系イギリス人第1号となりました。
音吉は、日本が、身分制度のない、信仰の自由が保障される国となるよう祈りながら、明治維新前年の1867年1月18日、地上での漂流生活を終え、翌日キリスト教墓地に信者J o h nMatthew Ottosonとして埋葬されました。
音吉の出身地、愛知県知多郡美浜町の聖書和訳頌徳碑の近くに、音吉顕彰碑(立像)が2018年10月5日に建立されています。

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