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日本同盟基督教団 教団事務所 

漂民オトキチから John Matthew Ottoson へ(その4)

漂民オトキチから John Matthew Ottoson へ(その4)
愛宕山教会会員 田中 幸子

日本人漂民の帰国を助ける

上海で宝順洋行の幹部として忙しい日々を送っていた音吉でしたが、上海周辺にたどり着いた日本人漂民を、帰国できなかった自分に代わり、中国船で長崎に送り届けています。
当時の幕府は、中国船(年2回、4艘のジャンク船)とオランダ船(年1回、2艘の帆船)だけには、長崎に来ることを許していました。
音吉の世話になった漂民は、記録に残っているだけでも、1841年に遠州の3人、42年に陸奥の6人、43年に加賀の2人と摂津の2人、51年に紀伊の5人、53年に摂津の12人などです。
この摂津の12人は、米国のペリー提督(東インド艦隊司令長官)が、日本に来る前に上海に寄港し、旗艦サスケハナ号で日本に送り届ける予定であったところ、音吉が同艦を訪れ「軍艦で送られても幕府は受け取らないだろう」と話し、12人を下船させ自宅などに匿ってしまいました。そのため、1853年5月17日、4艘の「黒船」は漂民を残したまま、日本に向けて上海から姿を消しました。
さらに、1857年11月、伊豆半島沖で漂流した尾張国知多郡半田村の栄力丸の船員七三郎も、翌年10月に上海で音吉の世話になったと、日本の奉行所で話しています。取り調べの記録に「当所に知多郡小野浦の産乙吉という者あり 当時は英国の官吏となりて我国の一万石候のごとし 下人七拾余人を遣ひて当地英館の締まりをせり 乙吉故郷の者この地に至りしを大二悦び種々に饗応し往事を語り遠近を遊覧せしめ・・・」(「知多郡半田村七三郎 漂流談」『資治雑笈』)とあります。当時の音吉の活躍ぶりがよく分かります。

上海義勇隊(万国商団)に加わる

1854年9月9日付『ノース・チャイナ・ヘラルド紙』の英領事館管轄内の借地人名簿に、音吉は”OtosonJ.M.”として掲載されています(証書番号87、土地区画番号96、年間借地料2550両[taelともいわれ、当時の1両≒銀14ℊ])。
この頃、南方から洪秀全が起こした太平天国の乱(1850-1864)や、特に上海では反政府武力団体「小刀会」の蜂起(1853-1858)により、英租界の安全が脅かされるようになりました。1853年4月、領事オールコックが主導して、租界の自衛と治安維持のため、外国商社員を中心とする義勇隊が組織され、音吉もこれに加わり、反乱軍と戦ったようです。
ヨーロッパでは、1853年10月にロシアが南下してオスマン帝国に宣戦布告したため、英仏などはオスマン帝国を支援し、ロシアとの戦争が勃発しました(クリミア半島が主戦場となったため、クリミア戦争と呼ばれています)。
そのため、英国政府は、長い海軍歴をもつジェームズ・スターリング准将(1791-1865、1862年に提督となる・20P写真)を、東インド・中国艦隊の司令長官に任命し(1854年1月から2年間)、当時のセイロンから日本に至る海域で、ロシア船を追撃させました。
5月11日スターリング提督は香港に着き、上海の英租界での混乱を治めるため、25日上海へ移航し、オールコック領事と中国皇軍や地元の中国人責任者(道台)などと懇談を重ねました。提督は、西オーストラリア洲の初代総督(1828-1838)としての経験から、英租界の混乱を治めるためには、当地の内情を熟知している人たちから構成される、強固な自治組織が必要だと説き、以前の「道路埠頭委員会」に代わる、強力な行政管理機構「工部局参事会」の設立に貢献しました。

音吉、工部局参事となる――記念写真か?
同参事会の第1回会議が1854年7月11日に開かれ、その時の記念写真ではないかと思われる写真が1枚あります。後列左端の男性が、借地人を代表する参事として選ばれた音吉ではないでしょうか?
この写真は、中英バイリンガル版『老上海南京路 Old Shanghai Nanjing Road』(沈寂主編、上海人民美術出版社、2003)の26頁に「工部局参事会成員」として掲載されています(撮影日時は不明)。自由都市上海を守り抜こうとする固い決意が、若い参事たちの姿から読み取れます。
同じ写真が『図説上海』(村松伸=文、増田彰久=写真、河出書房新社、1998)の35頁にも掲載され、「1860年代の人びと。ウッド、スミス、カニンガムなどと裏面に記された記念写真。・・・エセックス美術館蔵」との説明があります。
筆者は、写真の所在について、エセックス美術館と上記2冊の出版社や著者などに連絡したのですが、すべて「所在不明」という返事でした。ただ、写真の裏面に記されたというカニンガム(E. Cunningham)は、参事会の前身「道路埠頭委員会」の議長(1852年、1853年)と参事会の議長(1868年から2年)を務めており、他の2人も設立当時に参事であったことは可能です。
この写真が参事会設立記念として撮られたものとすると、37才前後の音吉は、2か月後には、スターリング提督の「白服姿の通弁官」として長崎港に姿を現わしています。

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