「主はそこで彼に掟と定めを授け、そこで彼を試み」(出エジプト15章25節)
エジプトから救い出された民はシュルの荒野へ出て行き、そのまま東に進めばカナンの地にたどり着くことができました。ところが神は彼らをシュルの荒野を出ると南に下るよう導かれました。荒野が続く旅で水が見つからない3日間を歩いた民はマラに到着します。やっと水を見つけたところ、その水は苦くて飲むことができませんでした。そしてついに民は不平を言い始めます。そもそも壮年男子だけで約60万人いる群集が荒野を旅するのはあまりにも無謀なことです。しかしこれは初めからの神のご計画でした。荒野という環境は、負のイメージしかないかもしれません。しかし実は、荒野は神の民を育てるために最適な環境だったと言えます。
第一に、荒野は民を隔離するのに最適な場所
民は430年間エジプト人の間で生活していました。神への信仰を保っていたものの、偶像礼拝の影響下に長く置かれていました。そして異教徒が築く町で生活すると、世的な価値観に知らぬ間に染まってしまいます。まず彼らをそこから切り離す必要があります。そのためには、荒野は最適な場所でした。なぜなら外部からの影響を受けることがないからです。カナンの地に行けば再び異教徒に囲まれることになります。その前に民を隔離状態に置くことで、染みついた古い生き方を洗い流すことができます。
第二に、荒野は神の恵みを知るのに最適な場所
民はエジプトで過酷な労働を課せられていましたが、衣食住に困ることはありませんでした。しかし荒野は、水もなく食べる物もない過酷な環境です。人は豊かさの中にいると、衣食住は人の手で入手できるものだと思ってしまいます。つまり神の恵みであることを実感しにくい環境と言えます。水も食糧も手に入らない荒野に置かれたことで、民は神に養っていただかなければ生きることができませんでした。荒野は、神の恵みによって生かされていることを知るのに最適な環境です。もしこのような環境に置かれたなら、私たちの食前の感謝の祈りは全く違うものになるのではないでしょうか。
第三に、荒野は神の声を聞くのに最適な場所
荒野で彼らにとって最も重要なことは、神のみことばに耳を傾けることでした。神はシナイ山のふもとでモーセを通して神のことばを伝えられました。それは神の民としてカナンの地で生きる絶対の規範となります。彼らはそれを外部からの雑音がまったく入らない荒野で聞くことができました。私たちには、あらゆる情報がどこからでも入ってきてしまいます。人生の成功者になるには、豊かな生活を送るには、良い人間関係を築くには、健康に生きるにはなど、あらゆる情報にあふれています。現代はスマホなどがあるため、どこにいても24時間情報を得ることができます。この世の情報から全く遮断される恵みの環境を確保することはいかに難しいことでしょう。荒野はイスラエルの民にとって、神のみことばを聞くのに最高の環境だったと言えます。
このように荒野は、イスラエルの民が学び、成長するのに最良の場所であったことに気づかされます。だからこそ神はイスラエルの民を荒野へと導かれたのでしょう。昨今、日本のキリスト教界また日本同盟基督教団は、信徒の減少、教会の高齢化、教師の不足など荒野の中を通っているかのような厳しい現実の中を歩まされています。悲観的になってしまうところですが、この状況は神が私たちに与えられている大事な学び舎なのかもしれません。信仰への回帰、恵みへの回帰、みことばへの回帰が今私たちに求められているのではないでしょうか。