3月に寄稿させていただいた後もウクライナとロシアとの紛争、自由を求める国と、留めたい国との間にある政治の力学が、地域で国籍を超えて結ばれた家族の中に深い傷を与えています。ウクライナ・ロシアのみならず、カザフスタン、ジョージア、アルメニアなどの周辺諸国にも悲惨な爪痕を残しています。ボスニア・ヘルツェゴビナの紛争もそうでしたが、どれだけ多く病院が破壊され、サッカー場は墓地になり、家族が離散し、憎しみが増幅したことでしょうか。
第1次、第2次世界大戦を経験した日本には平和を唱えることから平和をつくる者としての役割が今ほど求められているときはないように思えます。「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」(マタイ5章9節)と語られ、十字架上で平和を語るのみならず身をもって平和をつくることの模範を示されたキリスト。
前回、世界をできるだけ俯瞰(ふかん)して見ることの大切さを述べさせていただきましたが、1つの用語の用い方、例えば世界宣教と海外宣教の見方は同義語的にも見えますが、全く違う視点を私たちに与えます。世界宣教とは地域を超えて神さまの視点で地球全体を見渡した宣教であり、海外宣教は英国や日本のように海を越えた対岸を見据えた見方になろうかと思います。隣国に海のない国には海外宣教はなく、用語に制限があります。
世界宣教の場合、神の視点が非常に大切になります。神はこの地球に住む人々をどのように見ておられるのだろうか、それは日本にも向けられている視点であり、日本は世界の全体像をどのように見て、何を備えようとしているかが問われています。一方海外宣教は水平線を見ながら、一つひとつハードルを乗り越えるのに似て世界の全体像の把握が難しくなります。マルコ16章15節でキリストが全世界へ出て行き、と言われた時代は世界地図も完成していない時代ですが、あえてキリストは全世界と言われたのには訳があると思います。人は安全や保守の方向を歩む傾向があろうかと思います。キリストはマタイ10章37節で「わたしよりも父や母、息子や娘を愛する者は、私にふさわしくない」と語りました。それはキリストのエゴではなく、キリストを愛するとき、更に申しますとキリストに向かうとき、私たちがどんなに神に愛され、キリストに愛されているかがわかります。その愛によってのみ、人は心から両親も子どもも隣人も愛せることになります。
神を愛し、従う者はキリストのしもべになり、キリストの愛の実践者、平和をつくる者になるのだと思います。教会を守るのは私たちではなく主キリストです。私たちのすることは私たちの身を守ることはもとより、さらに隣人の身を守ることかと思います。世界中を見渡すとき私たちの役割が見えて参ります。同盟基督教団が世界宣教を土台に据えている群れとしてさらに神さまが豊かに用いてくださることを祈っています。