忘れ得ぬ白服の通弁官
蘭学を学ぶために長崎にいた21歳の福澤諭吉は、1854年10月、英国軍人と英語で話しながら奉行所の階段を上り、出迎えた役人に堂々と日本語で対応していた「白服姿の通弁官」のことを忘れることができませんでした。1862年に遣欧使節団の一員としてシンガポールで1泊した折、ホテルに福澤を訪ねてきた男性について、『西航記』に「余仔細に其面色を認むるも嘗て見たることある者の如し。由て之を問ふに、九年前英国の軍艦に乗り長崎に至りしことありと云。即安政元年余長崎に遊学の時なり」とあります。
この若き福澤に強い印象を与えた「白服姿の通弁官」こそ、尾張廻船「宝順丸」(現在の愛知県知多郡美浜町小野浦の樋口家持船、船頭樋口重右衛門、乗組員14名)に雑用係として乗り、天保3年10月11日(1832年11月3日)、鳥羽港を出て江戸に向かったまま行方不明となったオトキチの成長した姿でした。地元では宝順丸は沈没したものと諦め、良参寺の過去帳と墓石に乗組員14名の死亡日(鳥羽を出港した翌日)と氏名および戒名が記され、音吉は「武右ヱ門子乙吉」、戒名は「満海寂円信士」として葬られました。
オトキチの漢字は「乙吉」とも書かれますが、後に自分の名前の意味をHappy Soundと説明していますので「音吉」とします。また、彼の生年月日は不明ですが、シンガポール国立公文書館の埋葬記録に「英国国教会派区画の墓番号226、宗派は長老派、埋葬日は1 8 6 7 年1月1 9日、死者名J o h n M a t t h e wOttoson、男性で既婚、年齢50才、住所Arthur’s SeatSiglap、職業は商人、死因は吐血」とあり、この書類から逆算して音吉は1817年生まれとします。
音吉の生涯の詳細については、『にっぽん音吉漂流記』(榛名徹、晶文社、1979)や『音吉伝――知られざる幕末の救世主』(篠田泰之、新葉館出版、2020)など多数あり、2021年5月には「廻船と音吉記念館」が小野浦に開設されましたので、そちらも参考にしていただければ幸いです。今回は、音吉の前半生だけを取り上げ、彼がキリスト者J o h n M a t t h e wOttosonとして葬られた経緯の発端だけを探ってみることにします。
流れ続けて北米に漂着
実際には、宝順丸は沈没してはおらず、遠州灘で暴風雨に巻き込まれ、櫂と帆柱を失ったまま北へ東へと漂流すること14か月、アメリカ大陸北西岸(現在のワシントン州オリンピック半島の北西端)に打ち上げられ、舵取りの岩吉(推定30才)、雑用係の久吉(18才)と音吉(17才)だけが生きていたのです。
漂着と同時に3人は原住民マカ族の村で厳しい生活を数か月強いられていましたが、1834年5月にマクラフリン(毛皮交易を主とするハドソン湾会社の北西地域の総支配人、信仰深い医者でもあった)の指示でマカ族から買い取られ、フォートバンクーバーに住むことになりました。音吉たちは健康を取り戻し、衣食住の心配をする必要のない生活を送っていました。ただ、食前の感謝の祈り、日曜日ごとに礼拝を守るという、いわゆるキリスト教を土台とする西欧社会に入ったことに気づき、音吉たちは心を痛めたことでしょう。「キリシタンは死罪」と厳しく教えられて育ってきたのですから。
数か月後、音吉たちはマクラフリンの好意により、ロンドン経由でマカオまで送られ(1834年11月25日コロンビア河口を発ち、1835年12月下旬マカオ着)、約1年にわたる航海中、大型帆船の仕組みや、乗組員の3分の2はイギリス各地の出身者でしたので、話し手の階層や出身地域による多様な英語の方言も少しずつ理解し話せるようにもなりました。航海中、船員は1日16時間労働で、日曜日は休日でしたが、必ず礼拝が守られ、上級航海士か船長、または牧師が乗船していれば牧師による説教がありました。
「ヨハネ」の和訳に協力
マカオに着いた3人は英国商務庁の保護下に置かれ、当時同庁の首席中国語通訳官となっていた、ドイツ出身の宣教師グッツラフ(1803-1851)の家に住むことになりました。グッツラフは3人の協力を得て、ヨハネ伝とヨハネの手紙1,2,3の和訳作業を約1年で終え、1837年5月には「ハジマリニ カシコイモノゴザル。」で始まる『約翰福音之傳』と『約翰上中下書』の木版刷りが完成し、現存する最古の日本語訳聖書となったのです。この作業を通して神の愛と十字架の意味を少しずつ理解できたからこそ、数年後、音吉は自分の名前にJohnを選んだものと思われます。1961年には、日本聖書協会などの支援を得て、知多半島の小野浦に聖書和訳頌徳記念碑が建てられ、記念式典が毎年行われております。