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聖書と古代オリエント 第12 回「聖なる神を恐れる信仰」

聖書と古代オリエント
第12 回「聖なる神を恐れる信仰」
朝霞聖書教会 牧師/聖書神学舎[ 宣教会] 教師 田村 将

「主はベテ・シェメシュの人たちを打たれた。主の箱の中を見たからである。主は、民のうち七十人を、すなわち、千人に五人を打たれた。主が民を激しく打たれたので、民は喪に服した。」サムエル記 第一 6章19節

これは、奪われていた神の箱が戻ってきた喜びの最中に人々を襲った悲劇について述べている一節です。宿敵ペリシテとの戦いの最中、勝利を得ようとしたイスラエルは神の箱を持ち出しますが大敗を喫し、その箱も奪われてしまいました。勝利に酔いしれ、神の箱を自分たちの神ダゴンの宮に安置したペリシテでしたがそれも束の間、直後に主の手(さばき)が下り、人々は腫物(疫病)に打たれて苦しみました。死の恐慌に耐えかねたペリシテは、ついに神の箱を償い金とともにイスラエルに返還し、事無きを得ました。

一方、神の箱を迎え入れたイスラエルの町ベテ・シェメシュの人々は大いに喜び、町は歓喜に包まれました。そこでは全焼のささげ物が主に献げられ、イスラエルの暗い時代がようやく終わるかのように思えたときでした。その矢先に、今回の出来事が起きたのです。人々のショックはとても大きかったようで、ベテ・シェメシュの人々は「だれが、この聖なる神、主の前に立つことができるだろう (Iサム6:20)」と叫んでいます。

一体、何がいけなかったのでしょうか。サムエル記の著者は、それは人々が「主の箱の中を見たからである」と明確に述べています。そして主が民を「打たれた」事実が3度も繰り返して語られ、事態の深刻さと徹底的な神のさばきの様子が述べられています。主の怒りは激しく、それに触れた民は「喪に服す」しかありませんでした。

本来「主(あるいは神・あかし)の箱」は,他の「聖なるもの(幕屋の器具)」とともに、聖所に仕えるレビ人でさえ直接触れることも見ることもできないとさえ言われることのあるものでした (民4:15, 20参照)。そこへ来て「箱の中を見た」というわけですから、事の深刻さが伝わって来ます (箱の中を見ているということは蓋を開けているということです)。なぜ人々はこのようなことをしてしまったのでしょうか。好奇心からでしょうか。あるいは箱が返って来たことへの喜びのあまりに、でしょうか。理由は記されていません。

ただ分かることは、消極的な仕方でではありますがベテ・シェメシュの人々がこのことを通じて神の恐るべき御力を覚え、このお方が「聖なる神」であることを知ったということでしょう。そして、そのような聖なるお方に対する自分たちの態度がふさわしいものではなかったことを痛切に感じたはずです。彼らは明らかに軽率でした。神の民であるということには責任が伴います。律法(みことば)に示されるところに従って神を聖なる方としてあがめる責任があるのです。

その点を踏み誤ったイスラエルの人々に対して、主は容赦なさいませんでした。主は異邦人のペリシテだけでなく、ご自分の民イスラエルに対しても(あるいは、ご自分の民であるからこそ)厳しく接しておられます。このことはある意味で、キリスト・イエスの十字架の贖いによって救われ、神の民とされた私たちに関しても言えることではないでしょうか。恵みにより、信仰によって救われたことにかまけて、罪の中に留まり続け、神を聖なる方とすることがない、ということにならないようにと願わされます。主は必ず私たちを苦難から救い出してくださいます。しかし、そのことにあぐらをかいて、神を神とする信仰を見失ってはなりません。主の救いを喜び感謝しつつ、聖なる神を恐れる信仰を頂いて歩めますように。

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