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日本同盟基督教団 教団事務所 

漂民オトキチから John Matthew Ottoson へ(その3)

漂民オトキチから John Matthew Ottoson へ(その3)
愛宕山教会会員 田中 幸子

ウィリアムズ日本語を学ぶ

善意のモリソン号を日本が砲撃した理由も分からないまま、全員が落胆してマカオに戻る途中、「またいつか(日本へ戻ることを)トライしよう」と音吉が言った、とウィリアムズは航海記に書いています。20歳(満年齢で19歳?)の音吉が、前向きな態度を示したことに、5歳年上のウィリアムズは力強く思ったに違いありません。
1837年8月29日、マカオに戻った7名の日本人は、グッツラフやウィリアムズの下で、日本語を教えたり、印刷所やグッツラフ夫人のメアリーが開いていた私塾を手伝ったりして、それぞれの生活を始めました。音吉は船員として米国・英国・欧州などへも行ったようですが、1843年頃までの詳細は不明です。しかし、ウィリアムズは父親への手紙(1841年4月26日付、FWW, p.122)に、「3人の日本人が最近マカオに着いたので、今は7人の日本人が私と一緒に暮らしている」と書いていますので、2階に6メートル四方の部屋を12室備えたウィリアムズ家は、漂民や宣教師たちの定宿になっていたようです。
例えば、宣教医でもあり後に(1859年)日本へ宣教師として来られたブラウン夫妻は、モリソン記念学校の責任者としてマカオに来られたのですが、開校を待つ間1839年2月から7か月間ウィリアムズ家で過ごされました。朝夕の祈りの場で日本人漂民と出会ったり、ウィリアムズの日本語学習の様子を目にされたに違いありません。
ウィリアムズは印刷所の仕事とともに、1844年11月米国へ一時帰国するまで、日本語と中国語の習得と研究に多くの時間を費やしていました。そのため、1853年と翌年、米国のペリー提督はウィリアムズを日本語の通訳として雇っています。1854年4月27日の深夜、横浜で日米和親条約を結んで下田に移航したポーハタン号上で、密航しようとした吉田松陰に「時を待つように」とのペリー提督の説得を、日本語で松陰に伝えたのもウィリアムズでした。

上海「宝順洋行」の「音さん」
アヘン戦争(1839-1842)で英国軍に大敗した中国(清朝)は、英国有利の「南京条約」を結び(1842年8月29日)、香港を英国に割譲し、上海ほか4港(広州、福州、厦門、寧波)を開港し、厳しい外国貿易制度を廃止し、多額の賠償金を支払うことになりました。広東で厳しい規制下に置かれた外国商社は上海に支店を開設し、1843年末にはデント商会も上海支店を開設し、音吉を幹部社員として迎えました。音吉は自分が漂民であったことを決して忘れてはおらず、デント商会の中国名を「宝順洋行」として英国領事館に届けています。
1845年上海土地章程が公布され、上海にイギリス租界(厳密には居留地で借地)が認められると、翌年には租界を整備するため、港・道路・警察・消防などを取り扱う部署として道路埠頭委員会が設けられました。デント商会は、英租界の黄埔江に面した外灘(バンド)のほぼ中央、上海税関の隣り9号地に2つの大きな建物をなっておりました。同商会の幹部として信用されていた音吉は、通称「音さん」と呼ばれ、それが苗字となってOttoson, Otoson, Ottersonなどと綴られました。
英租界では日曜礼拝は英国領事館内で守られていましたが、デント商会の共同経営者となったビール(T. C.Beale)が聖三一堂(Holy Trinity Church)の土地と建設費を寄付し、英国国教会(日本では聖公会)が1847年4月10日に献堂されました。その日かそれ以前に音吉は正式にJohn Matthew Ottosonとして洗礼を受け、結婚もしたようです。長女Emily Louisa Ottoson が、翌年2月に誕生しているからです。
さらに、「2~3人が上海と厦門で洗礼を受ける予定」とブリッジマンが、広東から1846年4月22日付で米宣教会の本部に報告し、同会の『宣教便り』The Missionary Herald(1846年版、Vol.42, p.321. 以下「ヘラルド誌」と略)に掲載されています。力松と音吉の洗礼についての言及だと思われます。力松は熊本からの漂民で最年少、モリソン号で追い払われた時には16歳とあり、ウィリアムズ家の集会や水曜日の祈り会などに出席し、「ウィリアムズの世話になっている日本人漂民の一人が、信仰をもつに至った」と報告されています(1839年7月14日付の報告、ヘラルド誌1840年版、Vol.36,p.81)。

「林阿多」の人相書き
1849年5月、音吉は英艦マリナー号マゼソン艦長の日本語通訳として雇われ、浦賀と下田近辺の測量に参加したのですが、日本の役人に対して自分を中国人で「林阿多(リン・アトウ)」と紹介しています。この時の音吉の姿が日本人画家によって描かれ、「嘉永二年閏四月渡来之通詞アトウ人相書」として、「鼻筋通り候方」など、12の身体的特徴が細かく書きとられており、具体的な音吉像が浮かんできます。詳細については、前出の春名徹著『にっぽん音吉漂民記』第十章を参照していただければ幸いです。

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