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キリスト教史ぶらり旅 第9回 古代の修道制

キリスト教史ぶらり旅

~第9回 古代の修道制~
和泉福音教会牧師 東京基督教大学非常勤講師 お茶の水聖書学院講師 青木 義紀

一部の例外を除き、私たちプロテスタントの伝統に「修道制」はほとんど根付きませんでしたが、古代のキリスト教に触れる上でこれを避けることができません。また修道制は否定的な面だけでなく、ここから学ぶことも多いので、改めて触れておきたいと思います。
修道制の起源には諸説ありますが、大きく2つの説を上げることができます。1つはパレスチナにその起源を見る説で、死海の畔で共同生活を送っていたとされるユダヤ教の一派であるエッセネ派(紀元前2世紀頃-紀元1世紀末頃)にその起源を見るというものです。もう1つは、紀元3世紀頃のエジプトにその起源を見る説で、アントニオスとかパコミオスという
人物が知られています。
アントニオス(251年頃-356年)は、紀元285年頃エジプトの砂漠で隠遁生活に入ったと伝えられています。この人は、三位一体論をめぐるニカイア論争で活躍したアタナシオスという神学者が『アントニオス伝』(Vita Antonii)を書き残したことで知られることになりました。この文献には、アントニオスが隠遁生活に入った時、すでに砂漠に引きこもって禁欲生活をしていた人がいたことが記録されています。彼らは、世俗を離れて砂漠に引きこもり、自らの聖化を求めて禁欲的な苦行に励む人々でした。具体的にどんな生活を送っていたかは知られていませんが、基本的に隠修者同士ほとんど関わりを持たず、ただひたすら孤独の中で聖化を追求していたと考えられています。
そのような孤立型の修道生活の中から、次第に「師父(しふ)」と呼ばれる霊的指導者を中心に集落を形成し、厳格な秩序を保ちながら共同生活を送る共住型の修道制が生まれてくることになります。この共住型の修道制の創始者とされるのがパコミオス(346年没)という人物です。ここには、初代教会の理想を求めて再現しようとする思いがあったと考えられています。このような集団が、次第にパレスチナ、シリア、小アジアなどにも出現するようになっていくのです。
このような修道制は、地域によって特色が異なったとも言われています。
テオドシウス1世(在位379-395年)の時代には、帝国の首都コンスタンティのポリスにまで修道制禁欲主義が広がり、大都市の中に周りを壁で囲って修道院を創建したため、「人工的な砂漠」がそこに出現しました。パレスチナ地域の修道制は、地理的・文化的にエジプトからの影響を受けましたが、次第に独自の特色を有するものとなります。その特徴は、狭い峡谷の山腹に独房や洞窟を点在させて、そこで共同生活を送り集会を持つというものでした。エルサレムは、4世紀以来「聖地」となって多くのキリスト者が巡礼に訪れるようになり、ここにも修道院が立てられることになります。ここには西方からやってきたラテン文化が根付き、裕福な貴族階級や女性が加わったところに特徴があります。
また禁欲生活と神学研究が結合し、国際的な流動性があったことも挙げられます。シリアは、長期にわたってササン朝ペルシャ帝国の迫害に悩まされたり、禁欲主義で知られるマニ教との激しい戦いがあったりしたので、エジプトとは異なる伝統の禁欲主義が生じました。マニ教の禁欲主義に打ち勝つため、より過激な禁欲主義が行われました。例えば、重い鉄の鎖を体に巻き付けて長期間1か所に閉じこもる修道僧がいたり、髪を伸ばし放題にして日照りや風雨にさらされる野外生活を送る行者がいたり、高い山や柱の上に上って孤独な禁欲生活を送る者(柱頭行者)が現れたりしました。柱頭行者シメオン(390年頃-459年)は、30年以上にわたって9メートルの高さの柱の上で1人生活をしつづけ、多くの人々が巡礼に訪れたと言われています。
私たちは、救いや信仰の完成のために、必ずしも禁欲生活や修道生活を送る必要はありません。しかし主イエス・キリストご自身が、しばしば人々から離れて山に退き、1人で神と交わり、祈りに専念したように、私たちもまた、時には寂しいところに退き、孤独になって神と交わる時を持つのは大切なことです。私たちの教団は、とくにキャンプを大切にしてきました。そこには、都会の喧騒を離れ、不便な生活の中で神と向き合う生活があります。それは、古代時代の修道制につながる大事な伝統だと私は思っています。

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