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日本同盟基督教団 教団事務所 

不易流行 水草修治

理事の声

不易流行

水草修治(苫小牧福音教会牧師)

「ユダヤ人にもギリシア人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰を証ししてきたのです。」(使徒20章21節)

筆者がキリストを信じた1970年代後半、教会では聖書図書刊行会から出た硬い神学書の読書会がされていました。やがて80年代、世がバブル期に入ると、成功哲学を応用した教会成長論が流行し、競争に燃え尽きたころにはカウンセリングが流行しました。90年代に入って社会が右傾化すると、キリスト教界の一部に右傾化が生じました。そして最近、耳がタコになるように聞かされるのは「多様性」です。「あなたの真理、私の真理、みんな違ってみんないい」という相対主義です。
教会がその置かれた時代の人々に福音を伝えるために、流行を理解する努力をすることには意味があります。使徒パウロは言います。「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になりました。ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を獲得するためです。(中略)律法を持たない人たちには—私自身は神の律法を持たない者ではなく、キリストの律法を守る者ですが—律法を持たない者のようになりました。律法を持たない人たちを獲得するためです。(中略)すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。」(Ⅰコリント9章19〜22節)
しかし流行に合わせることに懸命になるあまり、伝えるべき不易つまり不変の福音の真理を犠牲にして異なる福音に陥ることがあります。古代のグノーシス主義者は、ギリシャ文化にすり寄って、精神を善、肉体を悪とする異端となりました。近代の自由主義神学者は啓蒙主義知識人にすり寄ってイエスを単なる愛の教師とする異なる宗教を作りました。また筆者は1990年頃、伝道会議の場で、福音派で名の知れたある伝道者が、「これまでのように人間の罪と神の怒り、悔い改めでなく、神の愛だけを語ったほうがいいのではないでしょうか」という発言をするのを聞いて、首をひねった記憶があります。
パウロは、エペソの長老たちへの訣別説教の中で、「ユダヤ人にもギリシア人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰を証ししてきたのです。」(使徒20章21節)と述べています。パウロは、福音を受け入れる妨げにならないために、自分の生活習慣を極力相手に合わせる努力をしました。パウロにとって、ユダヤ人の生活習慣に合わせるのは容易だったでしょうが、異邦人の生活習慣に合わせることには相当の努力が必要だったでしょう。しかしパウロは同時に断言するのです。相手がユダヤ人であってもギリシア人であっても、伝えたメッセージは同じ「神に対する悔い改めと主イエスに対する信仰」だったのだ、と。人間には罪があるので、神に対する悔い改めが必要である。その罪のために十字架で死んでよみがえってくださった御子イエスを信じなければならない。この福音は相手がどんな民族でもどんな時代でも伝えるべき不易の真理です。
主はおっしゃいます。「羊たちをみな外に出すと、牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです。しかし、ほかの人には決してついて行かず、逃げて行きます。ほかの人たちの声は知らないからです。」(ヨハネ10章4〜5節)。伝道において最も肝心なことは、主の声すなわち純正な福音で呼び出すことです。さもなければ、主の羊でない者たちが集まって、教会は動物園になってしまうでしょう。世を挙げて「多様性」を叫ぶ時代にあっても、同盟基督教団の教会は「神に対する悔い改めと主イエスに対する信仰」を宣べ伝え続けなければなりません。

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