新しい皮袋に注がれる希望「また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。…新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れます。」(マタイ9章17節)5月10日、夕張市に隣接する北海道・由仁町において、由仁オアシス教会の新しい会堂のための起工式が行われました。私にとって、その出来事は大きな励ましであると同時に深く考えさせられる経験となりました。
由仁町は、高齢化と過疎化が進む地域です。学校が閉じ、商店が閉じ、カフェも姿を消し、社会的には「希望が見えにくい町」と言われることもあります。かつて教会も閉じられた地域でした。しかし、その町に再び教会が建てられ、礼拝がささげられ、人々が集い始めています。そして開拓開始から5年を迎えた今、最大100名が集える礼拝堂を目指して建築が始められました。
人口が減少し人が離れていく地域において、まるで時代に逆行するかのように教会が建てられている。その姿を見た時、私は強い衝撃を受けました。教会が存在し、生き生きと礼拝がささげられている現実そのものが「神は今も生きておられる」「この町を愛しておられる」という証しとなっていたからです。
現在、同盟基督教団においては、少子高齢化や人口減少という時代の変化の中で、どのように教会形成を支え、限られた力を集中し、持続可能な歩みを築いていくかが問われています。行政的な効率化や簡素化を工夫する必要性も現実としてあります。しかしそのような中で、由仁の地で起こっている歩みは、私に1つの問いを投げかけました。「私たちは、何を基準に将来を見ているのだろうか」と。
人間の目には「難しい」と見える場所に、神は新しいみわざを始められることがあります。むしろ、希望がないと思われるところにこそ、福音の光が強く輝くことがあるのではないでしょうか。その時、私の心に重なったのが、イエスさまの「新しい布切れと新しい皮袋」のたとえでした。マタイ9章で、イエスさまは断食について問われた際、「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れます」と語られました。当時の人々は、断食という宗教的実践を通して、自らの敬虔さを示そうとしていました。しかしイエスさまは、問題の中心が行為そのものではなく、「救いの時代が変わった」ことにあると示されたのです。
旧約の時代、人々は罪の赦しを求めて断食し、自らを戒めました。しかし、イエス・キリストが来られた今、救いは人間の努力や敬虔さによるのではなく、キリストの十字架による恵みによって与えられるようになりました。つまり、「新しいぶどう酒」とは、イエス・キリストによる新しい救いの恵みそのものです。そして「新しい皮袋」とは、その恵みを受け止めるイエス・キリスト中心の新しい信仰、イエス・キリスト中心の新しい歩みを指しています。
私たちは知らず知らずのうちに、「これまでこうだった」「現実的に難しい」「将来性が見えない」と、人間の経験や計算という「古い皮袋」で神のみわざを測ろうとしてしまいます。しかし神の働きは、しばしば私たちの予想を超えて進みます。
由仁オアシス教会の歩みを通して、私は自らの小さな信仰を示された思いがしました。人間の方法、人間の不安、人間の計画を超えて、「福音そのものに生きる」とはどういうことかを、改めて考えさせられたのです。もちろん、知恵や計画は必要です。しかし、それ以上に大切なのは、主が今も働いておられることを信じ、その導きに従う謙遜な姿勢ではないかと思います。
人口減少の時代にあっても、地域が衰退しているように見えても、神の希望まで失われたわけではありません。主はなお、ご自身の教会を愛し、福音を必要とする人々を招いておられます。今、私たちに必要なのは、現実だけを見て恐れることではなく、新しい皮袋として、主が注がれる恵みを受け止める心なのだと思います。イエスさまに目を向け、福音に生かされながら、同盟基督教団の歩みが主の希望に満ちたものとなることを祈ります。